笑いのためになされる

結局(内心でかなり迷った挙句)俺がナマエを連れて来たのは何の変哲もないトラットリアだった。もっと良い店だって知っているような気がしたのだが、ナマエが今、食べたいと思っているのは「高くて良い飯」ではなく「安くても普通の飯」なのではないかと思ったからだ。

席に着いても物珍しそうに周囲を見回す様子は、きっといつもの俺なら落ち着かねー奴だと苛ついていただろう。だが何故だか指摘する気になれない。もっと、見ていたくなってしまう。

「そんな珍しいか?」

「……外食はしませんでした。食べられれば良いと思っていたので。皆さんと出会ってから、私の世界は広がってばかりです」

傍を通り過ぎたフロアスタッフが運んでいた皿(多分ミネストローネだ)を興味深そうに目で追うナマエにメニューを差し出す。

「イタリアーナの風上にも置けねェな。そんなら気になるモン全部頼め。ここはまあ、割と何でも美味ェからよォ」

「…………えっと、じゃあここは、カポナータはありますか?」

メニューに目を通しながらナマエが聞くので、確かあったはずだと該当のページを開いてやる。ナマエが殊更嬉しそうに顔を緩ませたので、やっぱり俺の店の選択は間違いではなかったとほっとした。

ナマエが希望するカポナータと俺が食いたい物と個人的に外れていなかったメニューを幾つかオーダーするとナマエが驚いたように俺の手を握った。

「あ?どした」

「そんなに食べられないです」

「大丈夫だろ、残ったら俺が食うし」

確かにこいつは少食だったよな、と今までの事を思い返しながらナマエの手の形を考える。彼女はまだ目を見開いたままだった。

「あの、確かに、ギアッチョさんはいっぱい食べるなあとは思っていましたが。でも、」

「別に平気だろ。身体動かしてると腹減んだよ」

「なるほど……。ギアッチョさんは代謝が良さそうですものね」

手もこんなにあったかい、とナマエの温度の低い手が俺の手に柔らかく絡まる。指先が俺の爪から手の甲を伝って手のひらを擽る。餓鬼みたいな触れ合いにすら俺の心臓は正直な反応を返してしまう。誤魔化すようにナマエの手を捕まえて握り込んだ。

「オメーは、あんま温くねェな。冷え性かよ」

「別に普通だと思います。寒いのは、あまり得意ではありませんが」

「はー、そうかよ。んじゃ、俺との任務は行けねェなぁ」

はは、残念。気付いたら自然と口に出していた。まるで堅気の人間みたいに。俺自身、俺が何を言ったのか驚いてしまったくらいだ。俺は言葉を投げ付けるようなコミュニケーションをするけれども、その内容については一応吟味しているつもりだった。内心の見せられる部分と見せられない部分の区別くらいついているつもりだった。

そして今の俺の言葉は、俺の感情の一番奥深くの一番柔らかくて俺ですら触れてはいけない所に寝かされている。それをこんなにも簡単に、食事のメニューを決める延長線上で吐き出してしまうなんて。

「ぁ、い、今のは、っ……」

咄嗟に言葉を探した。でも何を言いたいのか分からない。ただ、とても「大切な」はずの言葉をこんなに簡単に、何も考えずに吐き出して、俺はとても動揺していたのだと思う。俺がまだ名前も付けていない感情を、その場のノリのような流れでナマエにぶつけてしまった事を酷く後悔した。

ナマエは意外そうな顔をしていた、ように思う。俺が柄にも無ェ事を言ったのと、それを後悔しているような様子を見せた事に。

二人の間には沈黙が落ちていた。ただ、隣のテーブルに料理が届いたせいで周囲は騒がしかった。何か、口にしなければと思って無理やりにでもナマエを見た。そうしたら、ナマエも俺を見ていた。いつも刺されるんじゃねェかと思っていた強い目の光が今日は柔らかいような気がした。

「……じゃあ、ギアッチョさんとの任務の時は、沢山着てあったかくしないといけないですね」

「……、っ、まあ、そう、だな」

ナマエは俺の動揺には気付かなかったように曖昧に微笑んで俺の手を軽く握り締めるとその手を離した。ああ、残念だな、そう思った。

***

テーブルに所狭しと置かれた飯をナマエはふにゃふにゃとした嬉しそうな顔で見ていた。ナマエは食う事には興味がねェのかと思っていたが、単に食うという事にエネルギーを使って来なかっただけなのだろう。

「おいしいです」

自分の頼んだカポナータを一口飲み下して、ナマエはとても嬉しそうな顔をした。

「オメェ、カポナータ好きなんか?」

「はい。マードレの得意料理でした。マードレはカポナータに何か隠し味を入れていたようです。自分で作っても同じ味にならなくて」

これもマードレの味とは少し違います。でもおいしい。

ナマエは笑っていたが俺は何も言えなかった。

母親。ナマエは覚えているのかと思った。目の前で何も出来ずに死んでしまった母親の事。まさか調べたとも言えず、今度は俺が曖昧に笑んで見せる番だった。

「そーかよ。てか、オメェ料理はすんだな」

「ええ。孤児院では食事当番がありましたし、養父に引き取られてからも食事は私が作っていましたから」

ナマエが笑った。いつもの澄ました綺麗な顔ではなくて、人間のような顔で。

「誰かと食べる事が好きです。養父が亡くなって数年はずっと一人だったから、いつの間にか食事もどうでも良くなっていました」

「おー、じゃあこれからも誘ってやるからよォ。しっかり食えや」

はあい、妙に間延びしたナマエの返答が感情を甘く刺激する。任務から帰ってきて、熱いシャワーを浴びた時と同じような感じがする。そう思うのは俺の柄じゃあねェんだろうな。