雨が降っている。私を受け入れてくれそうな家を幾つか考えたけれど、どの家主も顔を合わせるのはあまり気が進まなかったから仕方なく知らない店の軒先を借りていた。
少し動揺している気がした。あそこを逃げてしまった事について私は困っていた。私はあの人たちの事を自分で好きだと思っていた。だからきっと今までよりずっと「上手くやらないと」と思っていた。それなのに私の大切な生命についてホルマジオさんが言及した時、私はまた、「この生命が奪われてしまうのでは」と怖くなった。
私が私でいるせいで、奪われてしまうのではと怖くなった。
両親とまだ生まれていない弟を喪ったのはもう十年以上前の事だ。その日の私は三日後に誕生日を控えていて、家族で恒例の誕生日のお祝いをする予定だった。でも、マンマのお腹の中の生命の調子が悪くて二日後にマンマは入院する事になっていた。皆で誕生日のお祝いを出来ない事が気に食わなくて、私は「マンマも赤ちゃんも何処かへ行っちゃえ」とつい口走ってしまった。
そうしたら本当に皆何処かへ行ってしまった。
チャイムが鳴って玄関のドアを開けたパパが大きな声で叫んで、マンマが私の手を引いて寝室に逃げたのを覚えている。最後に見たマンマは笑っていた。私と確り目を合わせて「耳を塞いで目を瞑って、お誕生日のプレゼントの事を考えていてね」とおやすみのキスみたいなキスを貰ってクローゼットに押し込まれた。そう言えば、誕生日のプレゼントは何だったのだろう。
パパとマンマと赤ちゃんが死んだら私には誰もいなくなってしまった。暫くの間はパパのパパが面倒を見てくれたけれど、すぐに上手く行かなくなった。パパの兄弟の家やマンマの姉妹の家に行った事もあるけれどやっぱり上手く行かなかった。
結局仕方ないから孤児院に行って暫くそこで過ごした。そこも大して変わらなかったけれど。厳しい規律と理不尽な搾取が嫌で私は逃げ出した。そして路上で暮らしている時に私は私が持つ不思議な力に気付いた。
いつからこの力は私と共にあるのだろう。生まれた時からだろうか。私が「何処かへ行っちゃえ」と言ったその言葉をこの力が本当にしてしまったのだろうか。でもそれならば、クローゼットの中でひたすらに「マンマを助けて」と願ったあの声無き願いだって聞き届けて欲しかった。
一年くらい路上で暮らしていたら、ある日私の前に膝を突く人がいた。それがパードレだった。パードレは教会の神父様で私を引き取りたいと言われた。しわしわの手が私の頭を撫でた。「今日から私があなたの家族ですよ」と微笑んだパードレの顔は何処かぼやけていた気がする。
パードレは私の事を何も聞かなかった。無関心とは違うけれど私の境界線を尊重してくれた。そして時々私がパードレの事や神様の事を聞くと嬉しそうに教えてくれた。パードレの嬉しそうな顔を見ると私は何だかパパやマンマの事を思い出したから、私は神様の事を沢山聞こうと思った。パードレはとても嬉しそうに私に色々な事を教えてくれた。
でもパードレは優し過ぎたみたい。ある雷雨の日に教会を訪ねて来た男に一晩の宿を貸してやった時、男は私が女だと気付いて乱暴しようとした。男から私を庇おうとしてパードレはその男を殺めてしまった。我に返って血塗れの手や身体を洗って「あなたのせいじゃあないよ」お互いにそう言って私たちは抱き合って眠った。でも朝起きたらパードレは十字架の足下で自ら命を絶っていた。パードレのポケットに入っていた手紙にはパードレの優しい筆致で「あなたのせいじゃあないよ」と書かれていた。
触れたパードレの身体はとても冷たくて、私はその身体を抱いて誓った。悪い人たちは私が全部殺してしまおうって。きっと私が神様から与えられたこの力で、この世に存在する全ての悪を消してしまおうって。そして、それから。
それから、もう大事な生命は作らないようにしようって。大事に思えば思うほど、喪った時が悲しいから。
だからホルマジオさんにそれを言及された時、私はまた喪う事を恐怖した。私の手の中で私に縋るしかないこの小さな生命を。否、本当は多分私がそこに存在する事を僅かにでも許してくれたあの人たちを。
だから喪う前に捨てた。今頃彼らは私を捜しているかも知れない。見つかったら殺されるのだろうか。でもそれも良いかも知れない。家族を殺したあの男をこの手で始末出来なかった事は心残りだが、それよりも終わりにしたい気持ちが大きかった。私は私と私の愛した人のために「良い事」をしたつもりだけれど、どうしてだろう。今は「良い事」をすればする程、神の国から遠去かる気がしている。
終わりにするならパードレの教会に行こう。ゆっくりと立ち上がったら足下で「テオ」が鳴いた。この仔がこの仔の意思でついて来てくれているのかが、私にはもう分からない。両手で掬い上げてポケットに入れる。小さな生命の重みがとても恐ろしい事のように思えて仕方なかった。