Tempus volat numquam redit.

彼はこの世界を美しいといつも言った。神の創り給しこの世に何一つ、醜いものなどありはしないのだと。美しい微笑みと共に常にそう口にした。だがその口端が時として引き攣っていた事に彼自身気付いていただろうか。

物分かりの良い顔で物分かりの良い言葉を吐くこの男が、唯一、その端正な顔を歪めた夜を覚えている。長い時を隔てた今でも。

***

ナマエとは同じ学舎で学んだ。友人、と言う程に、深い関係では無かったような気がする。かと言って知人と言うには彼の印象は余りに強過ぎた。

ナマエの周辺には常に多くの「友人」がいた。それは彼が人の言われたい言葉を理解して、それを口に出来る器用さがあったからだ。彼は常に人と喜びを共有し、人の悲しみに共感した。そのためナマエの周囲にはいつも「何かを言われたい」人間がいて、それはまるで神に額づく信者のように見えた。ナマエ自身は秩序立っているというのに、その周りはまるきり無秩序で美しくないと思った。

ナマエは孤児の生まれだった。彼の言葉で言うところの「善意の大人」に引き取られ、衣食住を確保し、学問を志した、そうだ。幼い頃から神童の賛辞を恣にし、品行方正で、いつも作ったような美しい顔で笑っていた。

「全て神の導きによる物だもの。僕はただ、それに従っただけ」

つまらないくらい美しい顔で笑い、つまらない言葉を吐くナマエを心底つまらないと思った。私より幾許か幼いナマエが何もかも知ったような顔で笑うのはとても面白くないと思った。

それから、ナマエは何事も卒なくやった。日常のあれこれや対人関係だけでなく、学問においても同様に。どの領域においても要点を掴む事がとても上手かった。並の才の者では初心のナマエの足下にも及ばなかった。だがどの領域にも、彼が然程興味を惹かれているようには見えなかった。

「君の目には何事もが、面白みの無い世界に映っているようだ」

いつかまるで皮肉のような言葉を投げた事がある。ナマエは驚いたように目を瞬かせてそれから、作ったような笑いを見せた。だがそれは口端が引き攣っていた。

「神の創り給しこの世界が『面白みの無い世界』だなんて。……この世は美しいよ。それだけは、疑いようがない」

ナマエの宇宙のような瞳が歪んだ。少なくとも私にはそう見えて、そして私がそう見たからこそナマエはきっと私を警戒するようになったのだろうと思う。ナマエは私の事を殊更毛嫌いはしなかったが、上手な理由をつけて避けるようになった。

ナマエとは顔見知りではあるが友人と言うには程遠い。私は気にしていなかった、と思う。あの夜までは。

あの夜は新月で星が良く見えた。凡そひと月振りの月明かりの無い観測日に私はやや浮き立ちながらいつもの観測地へと向かった。そこにナマエがいた。まるで約束でもしていたかのように。私の足音に振り返ったナマエはいつものように美しく笑った。暗がりだったせいで、その表情の細部までは見えなかった。

「…………こんばんは、奇遇だね。そういえば、フベルトの研究は天文だったんだっけ」

ナマエは私がここにいる事に驚いたような言葉を吐いたが、表情は落ち着いていたように見えた。きっと私が観測に来る事を知っていたのだろう。星空を凝縮したような瞳が幾許か振りに私を真正面から見詰めていた。

「そういう君の研究は確か、」

「僕は神学」

観測は時間との勝負のためナマエに断りを入れ、彼の隣で作業をしながら途切れ途切れに言葉を交わす。ナマエの視線が頬に刺さるような気がして思わず視線を下げた。彼は私を通り越した何処か遠くを見ているような気がした。

「フベルトはその研究で何を証明したいんだい」

観測が一段落してアストロラーべを下ろした瞬間にナマエが声を掛けてくる。どうやら機を窺っていたようだ。そしてそれは回答するのにまるで時間を必要としない問いだった。

「簡単だ。神が創ったこの世界が、美しいという事を証明したい。全てこの世で起こる事は美しく、合理的だと証明したい。否、必ず証明する」

ナマエの目を見た。星を集めたような目がゆっくりと瞬いた。それから射抜くように確りと、強い光で私を見た。

「そう。それはとても素敵だ」

それはそう思っていない事が明白な返答だった。だが核心に触れるような事は特に何も言われていないため再度アストロラーべを空に翳した。ナマエの視線が強くなる。

「素敵な研究は、出来るだけ長く続けたいと思わないか?」

「そうだな」

「なら、僕が言いたい事だって分かる筈だ」

硬い声色に仕方無くナマエの方を見た。ナマエの顔は静かな怒りに歪んでいた。聡い人間はある種とても面倒だと思った。私もまた、ナマエが次に何を言うか理解していた。

「君の研究はいずれ、禁忌に行き着くのだろう」

ナマエの確信を持った静かな声が夜の帷に沈む。遠くから虫の音が聞こえ、星の瞬きは音として聞こえそうだった。風が無い今夜は絶好の観測日だったが、今、私は星を観測する事なくナマエと向き合っている。

「さあ、研究は未完成なのでね」

「いいや、その研究は必ず完成するだろう。……君が完成させるかどうか、そんな事はどうでも良い。君か、或いは君の意思を受け継ぐ者たちの手によってだ」

まるで未来を見てきたかのような言葉だった。ナマエの瞳に宿る怒りの色は、しかしどこか焦燥を含んでいるように見えて私は静かに掲げていたアストロラーべを下ろす。

「何が言いたい」

「今は未だ、それは君だけの研究だろう。求心力など欠片も無い、ただの戯言だ。その研究が『そう』である内は僕は何も言わないし、誰にも言わない。だが、もし、それが君の手の内を離れて独り歩きするのならば、」

禍いの芽は必ず摘まなければならない。

ぞっとするような温度を持った瞳が私を見ていた。それはまるで狂信者その物だった。そして同じ目をしたナマエの養父の事を思い出した。当代の神学研究の有力者で、過激な原理主義者。

「私の事を買い被っているな。私は一介の学者で、未だ道半ばだ。そんな私が何を成せると思っている?」

「まさか。君が優秀な学者である事は疑いようがない。そしてそんな君が信奉する説がきっと正しいこともね。でもさ、……『神』が創り給しこの世界を、否定する言説を流布する事が赦される筈がない」

物分かりの良い「優等生」のナマエはそこにはいなかった。そこにいたのは優秀で聡明で温厚で善良でそれでいて苛烈な本性を見せる男の姿だった。

***

ゆっくりと意識が浮上する感覚があった。どうやら意識を失っていたらしい。昔の夢を見たようだ。

あの夜、ナマエはそれ以上何も言う事無く私に背を向けた。そして次の日には学舎からいなくなった。師の話では養父の勧めで他国の大学へ転学したそうだ。誰も、何も知らされておらず、暫く学舎ではナマエの噂で持ち切りだったがいつしかそれも無くなった。

しかし誰もが彼を忘れても、私は、私だけはナマエの事を覚えていた。それは己の研究について言及されたからではない。ただひたすらにあの夜のあの、人間という生き物の醜悪さを形にしたような美しい顔が忘れられなかった。

ゆっくりと時間を掛けて身体を起こす。強く痛めつけられた身体にはそれしか選択肢が無かった。だが未だ限界ではないのは尋問に多少の手心が加えられているからなのだろう。

熱心な尋問(と彼らは言うがこれは拷問だ)にも間隔がある。常に苛烈では対象が直ぐに死んでしまう上に尋問官にも苦痛が伴うからだ。多くの異端審問官は「普通」の人間だ。人間を壊す事に抵抗がある様子を見せる者もいる。(一部そうでない者もいるようだが)だからこそ尋問には間隔がいる。飴と鞭のような物だ。そして今、この放置されている時間は束の間の飴の時間なのだろう。

弱った目では周囲の状況が判別出来ない。痛め付けられた身体は軋み、熱を持ち、全く自分の身体ではないように感じた。少しでも体力を回復させなければならない。私には未だ、やり残した事がある。遠くから、石造の廊下を叩く足音がする。誰かが、来る。

足音は今まで聞いた事が無い人物の物のように聞こえた。若く冷静な人間の物だろう。夢を見たせいか、ナマエの顔が過ぎった。

たった一つの扉に背を向けるようにして身体を伸ばした。せめてもの抵抗と言えば抵抗だ。軋むように押し開かれた扉の前に気配が一つ、現れた。尋問官が喉奥で笑い、空気が揺れる。そして私はこの笑いを知っていた。

「……だから言ったのに。『神』を否定する言説を、流布する事が赦される筈がないって」

聞き覚えのある声は幾らか深みが増して甘く聞こえた。星屑に浸したような瞳はあの頃と変わりなく輝いていた。その微笑みさえ、変わりなく。

ナマエは共に学んだあの頃と何も変わっていなかった。ただ、その笑みはもう仮面のように綻び一つ無い。口端を引き攣らせるような幼さも、熱に浮かされたような狂信も、きっともう二度と表出されないだろう。人間を煮詰めたようなあの醜悪な美しさにはもう二度と。その事がとても、ただひたすらに残念に思えて仕方なかった。