ヴァシリと夫婦になっても、その距離は幼馴染だった時の方が近かったのだとナマエは思っていた。それはヴァシリがナマエから意図的に距離を取っていたのもあるだろうし、ナマエもナマエでヴァシリの事を恐ろしく思っていた事もあるだろう。
戦争から帰って来てから、ヴァシリの一挙手一投足がナマエには恐ろしく思われて仕方なかった。ナマエの中の彼はそんな眼差しも息遣いも足運びもしなかった。不意にナマエを見詰める視線に酷く冷たい物が混ざっているような気がして、ナマエは彼が己に視線を向けている事に気付かない振りをした。
「あ、」
ふと、暖炉の薪が少なくなっている事に気付いた。薪割りは女の手では重労働だったから、ヴァシリが担ってくれていた。きっと今、その役割に精を出しているのだろう。行かないとな、とは思いつつもナマエはどうにも足が向かなかった。まだナマエはヴァシリと夫婦になったという実感が無かった。より正確に言うならば、ヴァシリが帰って来たという実感すら無かった。
結局薪は取りに行く事が出来ず、気付けばヴァシリが補充してくれたようだった。「あ、りがとう」とナマエが辿々しく礼を言うとヴァシリは無言のままに首を振って応えた。彼は以前もこれくらい、寡黙だったろうか。ナマエは記憶を遡ったけれど良く思い出せなかった。
静かな食卓で共に飯を食う。幼馴染であった頃だって同じ事はあった筈なのに、どんな会話をしていたのか思い出せない。ヴァシリは黙々と機械的に食物を口に運ぶ。ナマエは何事かを口にしなければならないのかとぐるぐる考えていた。
「……今日、」
「、っ」
不意にヴァシリが口を開いたのでナマエは大袈裟なくらいに肩を揺らした。ヴァシリがそれに気付いたかどうかは定かではなかったが、彼はナマエに視線を遣る事は無く言葉を継いだ。
「ナマエの、前の相手の話を聞いた」
前の相手、と言われてナマエは咄嗟にその男の事を思い浮かべた。ナマエより十程歳上で街に住んでいて金持ちで、兵役を金で逃れた。偶々街に出たナマエを見掛けて見初めて、両親に金を握らせて娶ろうとした。
冷静に考えたら酷い相手だと思った。でも戦中は自分が嫁に行けば家族が楽になると思っていた。それがたとえ、「幼馴染を裏切る事になった」としても。
「最低だと思った。兵役逃れも金でナマエを買おうとした事も、それをナマエが受け入れた事も何もかも」
「、ヴァシリ……」
「俺はナマエとの約束だけであの戦場を生きていたのに、ナマエは違ったのか」
強く詰るような視線がナマエを貫く。俯くナマエの脳裏に過ぎるのは、彼が出征する直前の事だった。
俺だけを待っていて欲しい
乞うような視線に心臓が甘く痛んだ。ナマエは己が小さく頷いたのを確かに覚えているし、ヴァシリが優しく顔を綻ばせて己を腕に閉じ込めたのも覚えている。出来る事ならばナマエだってその約束を果たしたかった。
「っ、そ、れは……」
「……ナマエには、分からないか?俺があの約束のために何人殺したか。……分からない、か?」
じっとりとした視線が恐ろしくてナマエはヴァシリの顔を真面に見る事が出来なかった。何故だかナマエにはヴァシリが「その事」を後悔しているようには見えなかったからだ。
「……お、幼いきょうだいたちだって、いたの。あの人の所にいけば、家族に楽を、」
咄嗟に言い訳めいた言葉を吐いて、ナマエは自身の選択が誤りだった事に気付いた。ヴァシリの目が顕著に冷たくなった。
「……ナマエが俺を生かしたのに。君は俺が帰って来たらどうするつもりだった?否、帰って来ない方が、都合が良かったか?」
「ちが、っ」
唇を震わせてナマエがその言葉を否定しようと顔を上げた時にはヴァシリは彼女の目の前にいて強い力で腕を取られた。ナマエが痛みに目を細めるのをヴァシリはただ見ていた。強く手を引かれて無理やり立たされて、行き着く先は当然のように寝室だった。
「っ、誰にも、渡さない」
寝台に放られて、間髪を入れず重い声が降ってきた。その意味を問う前にナマエの唇はヴァシリのそれによって塞がれ、結局ナマエが解放される頃には彼女の意識は曖昧で、ナマエは彼のその言葉の意味を終ぞ問う事が出来なかった。