ヴァシリと夫婦になる話

意識は未だ、微睡みを抜け出す事が出来なかった。暖かくて柔らかな何かに包まれるようにナマエは安堵の中で目を閉じていた。心地良さと苦しさの丁度中間くらいの力に、ナマエは仄かに息を吐いて擦り寄るように熱の塊に身を寄せた。束縛の力が増したような気がして、身を捩ると優しい温度に頬を撫でられた。酷く心が穏やかだった。戦争が始まる前のように。

***

朝、起きた時にナマエの隣にヴァシリはいなかった。昨夜の名残が身体中至る所に残っていて、ナマエの身体は自然に震えた。やはりヴァシリを恐ろしいと思った。身を清めて服を着て部屋を出た所でヴァシリと鉢合わせたからナマエの身体はもっと震えた。彼はいつものように無表情でナマエを見つめていた。ナマエを見て、それから「朝食を作った」と静かに呟いた。

「え、あ、お、起きれなくて、ご、めんなさい……」

「…………、謝らなくて良い」

咄嗟に謝罪の言葉が出たのを、ヴァシリの低い声が嗜めるようになぞる。ナマエは曖昧に頷いて彼の横を通り過ぎようとした。不意にヴァシリの手がナマエの手首を掴む。強い力にナマエが身を竦ませると彼は驚いたように目を見開いて、それから「、すまない」と決まり悪そうに口の中で言葉を転がした。

「あ、ううん、だ、いじょうぶ……」

握られた手首からヴァシリの手のひらの熱が伝わってくる。特別熱くもなく、冷たくもないその手から何かが伝わりそうで伝わらなかった。

「その、」

ヴァシリはナマエの胴体の中心辺りに視線をやっていた。ナマエはヴァシリの顔を見たがヴァシリはナマエの顔を見ていなかったから視線は絡まなかった。

「その、昨夜は、すまなかった」

「……え、っと」

ヴァシリの瞳が揺れるように彷徨って、それからナマエの瞳を見詰めるためにゆるゆると動いた。ナマエはヴァシリが戦争から帰ってきて初めて、彼の瞳を確りと見詰めた気がした。そしてその瞳の中に確かな苦しみを見付けた気がした。

「ナマエには、どうにもならない事で、君を責めてしまった。…………すまない」

まっすぐな目の強い力にナマエは咄嗟に目を逸らしてしまった。ナマエの腕を掴むヴァシリの手が確かに震えた。あ、と思う頃にはナマエはヴァシリの腕の中にいた。

「ヴァシリ、」

「……、愛している」

「っ、あの、」

「ナマエを愛しているんだ。君がいたから、俺は生きて帰って来れた。だからせめて、……君を、ナマエをまた腕に抱くために、大勢を殺した俺を、拒絶しないでくれ」

震えるような縋る声にナマエは心臓が小さくなる気がした。だがそれは拒絶を意味しなかった。それは悲しみだった。戦争に行く前の彼は優しくて、己を見詰めるその目に影なんて一つも無かったのに。戦争が己の大切な人を痛め付けたのだと知った。

「ヴァシリ、」

「っ、ナマエ、」

恐る恐る、ナマエはヴァシリの広い背中に腕を回した。その背に触れた時、ヴァシリの身体が大袈裟に震えたけれど、構う事無くナマエは彼の身体を抱いた。

「ヴァシリ」

彼が帰って来てから初めて、ナマエは自分の意思ではっきりとヴァシリの名を呼んだ。その存在を証明するように。ナマエの身体を抱くヴァシリの腕の力が強まる。

「ヴァシリが、帰って来てくれて嬉しい」

ぎゅう、と痛いくらいに抱き寄せられる。首筋にヴァシリの顔が寄せられて、吐息が皮膚を擽る。身を竦めると「愛している」と不明瞭な声が聞こえた。

「ヴァシリ」

「出征の時は色々あったから、ナマエに、まだちゃんと言ってなかっただろう。だから必ず生きて帰らなければ、と思った」

「……ヴァシリ、」

ナマエは自分の声が詰まって上手く音に出来ない事を酷くもどかしく思った。ヴァシリの手が強く身体を抱いて、ただひたすらに愛を囁かれた。言葉が返せない代わりに、ナマエはひたすらヴァシリの大きな身体を抱いていた。