以後三十年戦争

この世は馬鹿ばっかりだ。頭の悪い人間は簡単に手玉に取れる。聞こえの良い言葉を吐いて、下手に出てやったら良い。私はどこまでだって成り上がってみせる。この世に復讐する為に。いつかこの世を崩壊させる為に。

「くだらないな」

私の隣で飽きもせず羽ペンを走らせる男を横目に私はベッドに腰掛けて水差しから注いだグラスに口を付ける。温い水が喉を流れていくのを感じる。素足の皮膚が床の棘を引っ掛けたので顔を歪めた。床板が悪くなっている。そろそろ引越しの時期だろうか。

「くだらないのはあなたの研究の方だわ。誰にも顧みられないならまだしも、なんだか最近ヤバい方面に足突っ込んでるって聞いたけど」

「そうか、誰に聞いた?」

全く興味も無さそうによく分からない計算式だとか図形を手許の羊皮紙に書き付けていく彼、フベルトに背後で舌を出す。ちなみに彼についてのヤバい噂は本当だ。先日取った客がそっち方面の学者だったからだ。その事を上手い具合にぼかしながら伝えてやると彼が振り返った。相変わらず意思の強そうな目をしているなあと感心した。

「君はまだそのような生業で糧を得ているのか?」

「……お説教は結構よ」

不満げな、面白くなさそうな顔をしているフベルトを見るのは初めてではない。寧ろいつもの事だ。彼はひと月に一回か二回ほど私の家を訪れる。……まあ、「私の家」と言いつつも此処は私の家ではないのだけれど。この家は元々は人里離れた空き家だった。前の持ち主は流行り病にやられたか、はたまた獣にやられたか、良くは知らないが兎も角住人が居なくなったのをこれ幸いと私が住み着いただけだ。それが蓋を開ければフベルトの秘密の研究の隠し場所だったなんて。初めて彼がこの家を訪れた時に私は本当に驚いてしまった。対するフベルトは顔色ひとつ変えていなかったけれど。

つまり私が勝手に棲み着いた家の天井裏にフベルトが彼の研究の成果を隠していたらしい。そういう訳で彼はひと月に一度か二度私の家を訪れて、不在だった間の研究の進捗を追加してまた街に戻るのだ。私は彼がいない間の研究の番人のようなものとして、彼から少なくない額の金を貰っていた。それは彼と初めて会ってから季節が一回りした頃に彼から言い出した事であった。

私は春を売って日々の糧を得ていたから街には住めなかった。だから別にそれ程の「金」は必要なかったのだが、フベルトは私の生業に良い顔をせず毎回毎回私と顔を合わせる度にくだらない忠告と共に金を渡した。私は貰った金をいつも戸棚の壺に入れていた。使った事は無かった。

「説教ではなく、これは、」

「あなたが言う事って全部私のやる事についての反対なんだもの。世間ではそれをお説教って言うのではなくて?」

私が唇を尖らせるとフベルトは面白くなさそうな顔をした。私たちの話はいつも平行線だった。フベルトが私に対してあれこれと忠告をし、私がそれを聞き流す。実に一方通行な関係だと思った。

「……君のする事は、美しくないと思ったからだ」

「そう。じゃああなたが宝物の隠し場所を変えるか私が出て行くかのどちらかね。どちらかと言えば私が出て行く方が早いかしら」

素足で先程引っ掛かりを覚えた床をもう一度撫でる。微妙な痛みを感じたから、もしかしたら棘が刺さったかも知れない。私が僅かに顔を歪めた事に気付いたフベルトがため息を吐いて立ち上がった。緩慢な動きで私の足下に膝を突く彼を他人事のように見ていた。

「此処は素足で踏むな、と言わなかったか?」

「忘れたわ。記憶力、良くないの」

当然のように丁寧な手付きで私の足裏を検分するフベルトに肩を竦める。彼は私の事を抱かない。金を貰っているから別にそういう事をされても文句は言わないつもりだった。それに私の人生に関わる男は皆、私の事をそういう目で見たからその例外であるフベルトの事が私には良く分からなかった。

「棘が刺さっている」

つまらなさそうにそう呟くと彼は徐に立ち上がり、いつも携えている荷物の中から鑷子を取り出した。

「どうしてそんな物を持ち歩いているの」

「研究には何が必要か分からないからな」

何だか上手く丸め込まれているような気がしたけれど、別にどうでも良かったのでそのまま流す事にした。フベルトは大柄な体躯には見合わない実に繊細な手付きで私の足裏の治療を終えると、ご丁寧にも包帯を巻いてくれた。

「たかが小さな棘くらいで大袈裟だわ」

「傷口を清潔に保つ事で余計な病を退ける事が出来る」

真摯な瞳が当然だとでも言いたげな顔で私を見詰め返す。どうにも調子が狂って彼から視線を外すと、フベルトは僅かに不審そうに目を細めたが再び立ち上がって机に着いた。

「それって何の研究なの?」

「…………教会を激怒させるような『ヤバい』研究だ」

私の言葉を使う彼に笑ってみる。フベルトが私みたいな言葉遣いをすると面白いと思った。面白いついでに街で見聞きした事について話してみようと思った。

「教会なんて怒らせとけば良いわ。知っている?私この間教会の人に声を掛けられたのよ」

フベルトの端正な顔を横から覗き込むように見る。彼はこちらに視線こそ遣さなかったが凛々しい眉が顰められたのを見るに私の声は届いているようだ。

「名前は知らないけれど、見た事のある顔の人。私の手に触れて腰に手を回すの、凄く手慣れてた。神に生涯使えるとか肉欲がどうとかなんて嘘ばっかり。きっとフベルトの研究より『ヤバく』て罪深いわね」

くすくすと笑う私に彼は物憂げな視線を向ける。大きな手のひらが伸びて来て私の頬を撫で、指先が髪を辿った。私を慈しむような振りをする彼は私にとって不思議な存在だった。

「…………教会には、近付かない方が良い」

「知ってる。私みたいな罪深い女は」

「違う。そういう意味ではない。……今の教会は、神の言葉を『教義』の名の下に曲解している。不都合な存在を、全て教義の名の下に消そうとしている。君や私は、その最たる例だ」

幼子に噛んで言い含めるような言葉はきっと彼の本心だろう。強い光を湛えた瞳が強く、強く私の目を見詰めていた。

「…………そういう事、何処で聞かれているか分からないわよ」

「時として誰かが正しい事を言わねばならない時もあるとは思わないか?」

悪びれた様子も無く表情を緩めるフベルトに私も唇を緩める。フベルトの乾燥した親指の先が私の眦を擦るように動く。あ、と思った時には少し湿った私の目尻に彼が唇を落としていた。

「君が下らない『教義』で生命を落とすのは惜しい」

何でもない事のようにそう言葉を継いだフベルトに私は何も言えなかった。学の無い私にはその感情を言い表す言葉を持っていなかった。いずれそれを、死ぬ程後悔するとも知らずに。