祝呪

明け方、なまえのいる部屋の方からけんけんと嫌な音の咳が何度も聞こえた。雨が降ったせいか急に気温が低くなっていたからだろうか。周囲に気を遣っているのかくぐもったその咳嗽はいつの間にか聞こえなくなっていったけれどその日の朝、なまえは部屋から出てこなかった。

***

「なまえ!飯、持ってきた!」

朝、起きて来なかったなまえの様子を見に行こうと彼女の部屋に行こうとしたら、少し先の目的地の障子が開けられていて誰かいるようだった。声の感じからして日泥のあのチンピラだろうか。朗らか、というのが良く合っている声だ。

「…………ありがとう、夏太郎くん」

いつもより大分弱々しいがなまえの声も聞こえる。いつもつやりとした声が今日は罅が入ったように聞こえた。

「おわ、声ガサガサだな。大丈夫かよ、風邪か?」

「ん、ただの咳だよ。幼い頃は喘病持ちだったんだけどこれでも大分治ったんだ。ただ、急に寒くなるとやっぱり咳が出てしまってね。ごめんね、明け方煩かったろう」

けほけほと空咳が何回か聞こえてなまえがはあ、と息を吐く声が聞こえた。

「身体を温めて、温かな飲み物を飲んだらマシになるから大丈夫。食事を持って来てくれてありがとう。土方殿には何か用があれば言ってくれればやれると言っておいてくれないかな」

「土方さんは今日は何もないから休んでろって言ってたぜー。俺たちも今日は何もやる事ねえから、なまえも用があるなら言えよ。代わりに出来る事はやっといてやるよ」

「……そう。ありがとう、……っ」

発作のような咳を幾つか溢したなまえに夏太郎が「大丈夫か」と慌てたような声を掛けるのが聞こえる。俺のいる場所からは様子は見えないが恐らく背でも摩ってやっているのだろう。なまえの咳は次第に治まっていった。

「本当にすまないね。軍の学校に入ってからは殆ど出なくなっていたんだけど。悪いけど、そこ、閉めてくれるかな。少し火を大きくする」

「俺やるぜ!なまえは飯食ってろよ!」

障子を閉めようとする夏太郎に、何故か見つからないように隠れて俺は二人の会話に更に聞き耳を立てるように耳を欹てていた。障子が閉められてナマエの声は聞き取りにくいが、夏太郎の声はそれでも良く通る。

「なまえは身体が弱かったのか?」

「どうかな。母上はあまり強くなかった。だから私は強くあらねばならないと思ったよ。私が病弱だと母上が父上やみょうじのお祖母様に怒られてしまうから」

何でもない事のように吐き出される言葉の端々からなまえが持つ、家に対する複雑な感情が窺える。昨日聞いたなまえの母親の事を想像してみる。「お山の病院」とやらに入院した、我が子の見舞いを喜ばない母親。なまえに対してはきっと何か思う所があるのだろう事は分かる。それは彼女の「秘密」のせいもあるのだろう。

「…………あんま、無理すんなよ」

夏太郎の声音が落ちて、なまえが軽やかに笑った。それは少し困ったような笑い方のような気がした。

「夏太郎くんは優しいねえ。士官学校に入ってからこんなに優しくしてもらったのって初めてだ」

「そうかあ?アンタみたいな奴だったら皆から優しくされるんじゃねぇの?」

僅かな沈黙が落ちる。なまえの声は聞こえない。もしかしたら俺に聞こえないくらい小さな声で何かを言ったのかも知れない。夏太郎がはは、と曖昧に笑った。

「夏太郎くんは、今日は何も無いの」

「俺?ま、土方さんから言われた事は全部終わらせたぜ!仕事が早いって褒められたんだ」

「そうなの、それは凄いね。…………じゃあさ、何も、無いならさ、」

嗚呼、嫌だ。そう思った。なまえが頼りたいと思う相手が増えてしまったようだ。恥じ入るような小さな声でなまえが夏太郎を引き留める言葉を吐いている。俺だけを頼れば良いのに。俺だけを頼って、俺だけを見て、俺と一緒に。一緒に。

一緒に、どうして欲しいのだろう。

「…………チッ」

自分の感情が上手く言い表せられなくて衝動的に息を強く吐いた。二人の間に割って入る事も出来た筈なのに、俺はどうしてもそれが出来なくて踵を返した。夏太郎がなまえに宛てがわれた部屋から出て来たのは正午過ぎで、随分楽しそうに鼻歌まで歌っていた。今なら、となまえの部屋に行こうとしたら、夏太郎に彼女は疲れて眠ってしまったと言われて、俺は遣り場の無い感情が塒を巻いて心臓の上に居座るのを感じていた。

なまえの世界に誰もいなくなれば良いのにと強く思った。