僕には兄がいる。本当に血の繋がりのある兄ではない。兄も僕も養子で、兄は僕より少し早く義父の許に引き取られたそうだ。
兄は聡くて、合理的で、人格的にも素晴らしく、非の打ち所が無い、正に「完璧」な人だった。街の誰にも好かれていて、そして、男の僕が言うのも何だが、とても、そう、艶やかな人と言うのが相応しかった。
兄は今の僕と同じ年齢の時にはもう、大人たちの中で学問をしていて、今では教授の地位に就くくらいには優秀だった。今は義父の手伝いで僕の学舎で教職を務めてはいるが、近い内に大学で教鞭を執る事は疑いようが無かった。
僕は兄が僕の名前を呼ぶその声が好きだった。落ち着いた甘い声がラファウ、と僕の名を呼び、そのしなやかな手が僕の頭を撫でる事が。それは神とか天使とかそんな何処か特別な物に、存在を肯定して貰えたかのような安心感があった。兄は街の人気者で、行く先々で常に声を掛けられていた。きっと彼らも「肯定」して貰いたかったのではないだろうか。
兄は優秀だ。能力的にも人格的にも。品行方正で、その成功は約束されている。その将来はこの目の前にいる異端者のようになど絶対にならない。
「つまり兄は、ナマエさんはあなたとは違うんですよ」
道すがら、フベルトさんにナマエさんの事を聞かれた。彼がナマエさんの事を知っている事に少し驚いたが、ナマエさんの為人を知っていたら当然の事かとも納得した。曲がりなりにもフベルトさんだって学界に属しているのだから、ナマエさんの事を知っていても何も可笑しくは無いだろう。フベルトさんは僕の話を黙って聞いた後に、ただ一言「そうか」と言った。その声音は何だか酷く落胆しているように聞こえた。
フベルトさんがまだ、異端の研究をしていると聞いた僕が真っ先に思い付いたのはナマエさんへの相談だった。ナマエさんはいつも正しいから、きっと僕がこの後どうしたら良いか最適解を得るに役立つヒントを与えてくれると思ったからだ。でも結果的に僕はそれをしなかった。義父に与えられたナマエさんの家には、先客のフベルトさんがいたからだ。二人は何処か親しげな様子をしていた。驚いたのはフベルトさんと話すナマエさんが声を上げて笑った事だ。
ナマエさんが声を上げて笑う所を僕は見た事が無い。ナマエさんはいつも感情を乱さない。大きな喜びも深い絶望もまるで無いかのように、彼の感情は凪いでいるのだと思っていた。フベルトさんが僕に視線を遣った事で、ナマエさんも僕を振り返った。思慮深い瞳が僕を見ている。その瞳の色は様々な色の混ざり合ったとても不可思議な色をしている。まるで宇宙のように複雑で美しい。
「おや、ラファウ。どうしたのかな」
耳に入ってくるのはとても落ち着いた声だ。甘くて心地良くて、ナマエさんに言われたら何を言われたって従ってしまいそうになる。でも今はその隣のフベルトさんの事の方が気になって、僕は二人を見比べた。僕の様子にナマエさんは小さく首を傾げている。
「……?ラファウが彼を私の家まで案内してくれたんだろう?フベルトさんから、そう聞いたけれど」
誤解だと、言うより先にありがとう、と深い声と共に形の良い手が僕の髪をさらりと撫でた。そんな幼子のような真似事を他人にさせた事なんて無いのに、ナマエさんなら許してしまう。それはまるで恋情のようだった。
「あ、あの、」
「何?」
「ナマエさんはフベルトさんと、その、知り合い、なのですか?」
ナマエさんが否定してくれれば良いと思っていたのに、彼は何事も無いかのように頷いた。どうしてだろう。ナマエさんが、普通の、僕より少し歳上なだけの年相応の青年に見えてしまった。
「フベルトさんはお義父さんに拾われる前、お世話になっていたんだよ。私に読み書きを教えてくれたんだ」
海と陸を混ぜたような美しい瞳が弓形に歪んで綺麗な笑顔になる。その表情を見せられたら、僕は必ず嬉しくなっていたはずなのに、今はどうしてだろう。全くと言っていいほど嬉しくなかった。
「そ、そう、ですか……」
僕は上手く笑えているのだろうか。「優等生」のような完璧で「他者に害を与えない顔」が出来ているのだろうか。良く、分からない。
「ナマエが今、何の研究をしているのか、話していたところだ」
僕に説明するようなフベルトさんの低い声が少し遠くから聞こえる。その声は今の僕にはまるで霧の向こうから聞こえるように曖昧に聞こえる。どうして、ナマエさんは、こんな異端者に。今のナマエさんの事なんて、何も知らない、愚かで、矮小な異端者の癖に。
子供の僻みみたいな非合理的な考えが浮かぶ。全く僕らしくもない考えだ。くだらない、取るに足らない、醜悪で荒唐無稽で不要な感情だ。
僕はナマエさんといると時々このような酷い感情に襲われる事がある。それはまるで一貫性を欠いていて無秩序で害悪で美しくない。美しいナマエさんの隣に相応しくない、未熟で浅慮な有象無象と同じになってしまう。
「私ですか?今は、」
「っ、神学ですよね!学問の王道だ。ナマエさんは、この歳でもうすぐ大学で神学を教える事になるんですから、本当に素晴らしいです!」
「うん?そうだね。『神学は全ての学問の頂点』だものね」
ナマエさんの事について、僕が答えたい、フベルトさんより、僕の方が今のナマエさんの事を知っている。その感情に気付けば気付くだけ、己の惨めさが浮き彫りになる。でも、にこにこと「肯定する顔」で笑うナマエさんの顔が僕に向けられる。それだけを救いだと思った。そうだ。僕はナマエさんにこの顔を向けられたかったんだ。
「……そうか」
でもナマエさんの表情とは対照的にフベルトさんはとても苦い顔をしていた。完璧な人間であるナマエさんが神学をやるのは当然の帰結である筈なのに、それが理解出来ないなんてやはり異端は異端なのだと気付いた。
結局目の前にフベルトさんがいるのに彼についてナマエさんに相談する事も出来ず、僕は何故かナマエさんに見送られて「フベルトさんと一緒に」家路に着く事となってしまった。
「…………」
「…………」
言葉も無く、ただ二人で歩くのはとても気詰まりで、ふと、隣を歩く彼を見上げた。そうしたら彼も僕の事を見詰めていて、その瞳の光の強さに目眩がするようだった。
「……君の、考えている事を当ててやろう」
ナマエさんの家にいた時は曖昧に聞こえた声がやけにはっきりと耳についた。僕は聞きたくなくて目を逸らしたけれどフベルトさんは僕の様子を無視して続けた。
「私が、ナマエの何を知っているのだと、思っているだろう」
「っ、」
フベルトさんが彼の、その名を口にした時に、僕はなんだかとても、「苛立った」。そう、確かに思った。彼は、ナマエさんは、僕の兄で、僕の先達で、僕の手本で、僕の。
僕の、何なのだろう。
「私は、彼の事をほんの数年程しか知らない」
止めてくれ。聞きたくない。それは、僕の知らないナマエさんで、僕の知りたくなかったナマエさんの姿だ。どうか、「何も知らないまま」の僕でいさせてくれ。阿呆のようにそう願うのに、フベルトさんは何の衒いも無く言ってしまうのだ。
「だが、私といたナマエが学んでいたのは、天文学だ」
ナマエが何を学んでいたか知りたいと言うのであれば、今夜、私と共に来ると良い。
フベルトさんの誘いに拒否権は無かった。彼は僕が拒否できない事を最早知っているようだった。そして僕はこの、過去も未来も一瞬にして変えてしまい、世界を揺るがすような「真理」に出会う事になる。
それ自体に悔いは無い。悔いがあるとすればただ一つ。
ナマエさんに、転向の理由を聞かなかった事だ。