土井先生が帰って来られないと聞いた。生徒たちは意気消沈しているし先生方は浮き足立っている。かくいう私も心に重い石が乗せられているような気持ちだ。ただの学園校医助手の私にもいつも優しく接してくださる土井先生がまさか、安否も不明だなんて。
「…………はぁ、」
薬草の整理をしながらもため息が止まらない。もやもやとした重石がぎゅうぎゅうと心を苛む。気が付けば手が止まってしまう。土井先生がいないだけで皆こんなに。
「はあ…………」
「何か悩み事?」
「っ!?っあ、ざ、雑渡さん……」
「ぶぶー、不正解。今は雑渡先生、だよ?」
目の前にいるのはタソガレドキ城所属の忍、雑渡昆奈門さんだ。土井先生が行方不明になった原因の一端を担っているとかいないとか。経緯は詳しく教えられてはいないけれどいなくなった土井先生と土井先生を捜しに行った山田先生の代わりに一年は組の担当をしているのだ。とても厳しいようで一年は組の生徒たちがボヤいていたのを覚えている。
「え、ええと、雑渡、先生……」
「はい、良く出来ました。それで?何か悩み事?」
にっこりと、隻眼からでも分かるくらい相合を崩している雑渡さんから視線を逸らす。誰のせいだと思っているのやら。
「……、土井先生の事、です、勿論」
雑渡さんの目を見る事が出来なかったのは、私が雑渡さんの事が苦手だからだろう。初めて伊作くんから紹介された時から、何だか苦手だった。その目というかその雰囲気が。対する雑渡さんは私がきっと「そう」感じている事に気付いているだろうにとても気安く私に関わりに来る。伊作くんたちへの態度を見るにそれ程悪い人ではないのだろうけれど、そうは言ってもやはりタソガレドキの忍でしかもその組頭で、となればそう簡単に心を許す訳にはいかない。胸の前で握り締める両手は私の心の防壁その物だ。
「ふうん……」
私の心中など知る由もないのか、雑渡さんは目を細めて首を傾げる。先程の表情とは打って変わって何だかとても面白くなさそうな顔をしている。私をじぃと見詰めるその目は鋭くて、ぴりぴりとした迫力を感じる。……少し、怖い。
「……恋しいの?土井殿が」
鋭い目がそのまま私を射抜く。怖くて逸らしたままだった目を伸びてきた大きな手に顔を掴まれて無理矢理合わせられる。力はそれ程籠められていない筈なのに有無を言わせないその手に唇が震える。
「ぁ、あの、」
「…………やっぱりいいや。何も言わないでよ」
「えぇ……」
唐突に顔を解放されて、それからぐい、と身体を寄せられる。ふわ、と香った雑渡さんの香りに心臓が高鳴った。雑渡さんはこうやって急に距離を詰めてくるから、その香りが鼻を掠める度に心臓が暴れ出してしまう。土井先生への心配と雑渡さんから受ける影響に心臓がぎゅうぎゅうに痛む。
「土井殿は私の部下も捜しているから心配しなくても大丈夫だよ」
「…………元はと言えばあなたたちのせいなのに」
「ううん、それを言われると痛いなあ」
肩を竦める雑渡さんの胸に手を突いて距離を置こうとするけれども、逆に身体を寄せられて私たちの距離はほぼ無くなってしまう。切れ長の目が見透かすように私を見詰めている。
「逃げないでよ」
「っだって、こ、こんな事を、される理由が無いです……」
「ふうん。まあ、君にはまだ、無いかもね」
雑渡さんは薄く微笑むと私の頬をその大きな手でそっと撫でた。怖い。捕食者のようなその見た目雰囲気全てが怖い。自然と身体が硬くなってぎゅ、と目を瞑った。
「土井殿が見付かったら、」
暗闇の中で左耳の方から声がする。その低音にぞわ、と背筋が震える。雑渡さんはそれすらもお見通しなのか喉奥で揶揄うような笑い声が聞こえた。
「私も御役御免なんだよね。……つまらないなあ。もういっその事土井殿を捜すの辞めちゃおっか。雑渡先生って呼ばれるのも割と楽しいし」
「っそんな!そんな事したら土井先生はっ!」
雑渡さんの指示一つで土井先生捜索隊の士気が変わるかも知れないと思ったら顔から血の気が引くような気がした。咄嗟に目を開くと目の前にはじっとりと重く湿った目をした雑渡さんが私を見ていた。
「ねえ、なまえちゃんさあ」
壁と雑渡さんの間に閉じ込められて囁かれるように耳に言葉を流し込まれる。ぞわぞわとした震えが背筋から全身を駆け巡る。頬が熱くくらくらしてしまう。心臓が恐ろしい程に高鳴っていて正常な状態ではいられない。
「『こんな事をする理由』、君にはまだ無くても、私にはあると思わないかい」
「え、ぁ、ざ、ざっと、さん……」
「また不正解。雑渡先生、だよ」
ぎゅうぎゅうに壁に押し付けられてすす、と腿の辺りに触れられている感触に慌ててその大きな骨張った手を両手で押し留める。制止された雑渡さんはぱちくりと目を瞬かせ、まるで「何故制止するんだい」とでも言わんばかりの顔をしている。
「っ、止めて、ください……」
「どうして?私には『こんな事をする理由』があるんだよ?」
「っ、だって、今は土井先生が、」
土井先生の名前が出た瞬間、雑渡さんの目が昏く光る。ダン、と顔の横に手を突かれ、顔がぐぐっと近くなる。吐息すら混じり合いそうなこの距離に顔を逸らそうとするのに雑渡さんの視線が怖くて目すら逸らせない。涙すら滲む目を雑渡さんの乾いた親指がなぞる。はあ、と雑渡さんの口からため息が溢れる。何だかその仕草は女の私から見てもとても艶かしい。
「ああ、もう、泣かないでよ。……大丈夫。土井殿はちゃんと捜しているから。なまえちゃんは何も心配しないで」
「うう、でも……」
すりすりと乾燥した手のひらで頬を撫でられ唇を潰すように触れられる。色々な意味で心臓が爆発しそうな私を見て雑渡さんはにっこりととても楽しそうに微笑んだ。
「じゃあさ、なまえちゃんがご褒美をちょうだいよ」
「ご、ご褒美?」
「うん。私たちが土井殿を見付け出したらさ、私のお願い聞いてくれる?」
変わらずにっこりとそれこそ子供のように笑う雑渡さんはきっとその腹の中で黒い事も昏い事も色々と考えているのだろうけれども、背に腹は変えられない。小さく頷くと雑渡さんはにんまりと、本当ににんまりと笑った。
「約束だよ?やっぱりナシ、は無しだからね」
じゃ、もっと本気出してさーがそ。
その一言と共にぱっと私から距離を取った雑渡さんは「またね」と私に手を振って保健室を後にした。一体何だったんだろう。その後すぐに同じく一年は組の担任代行の諸泉さんが来室したから(何でも一年は組の手裏剣練習で負傷したそうだ)私は雑渡さんとの話は忘れてしまった。それがまさかあんな事になるなんて、思いもしなかったのだけれど。