アトリエの片隅に、未完成の作品がある。それはワタシがワタシのために描いた作品で、誰のための物でもない。この絵を完成させた暁には、ワタシは。
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手を伸ばせば触れられる。だが触れるべきではないと分かっていた。触れてしまえば最後、ワタシはナマエを離せない。ナマエとワタシでは、住む世界が違うのだとずっと前から知っていた。
ナマエとは人生のどん底で出会った。
何一つ形にならない。それどころか形になる物が何一つ出てこない。アトリエに篭って無を消費するだけの日々だった。いっその事両腕をへし折ってやろうかと思っていた。そんな、若さと苦さだけの毎日だった。
ナマエはテーブルシティの裕福な家の一人娘だった。幼い時は病がちで何度も死の池の淵を彷徨ったという。一年の半分以上をベッドで過ごすナマエの心の拠り所は芸術だったそうだ。調子の良い日は毎日、色々な芸術家の作品集を読んだと教えてくれた。木漏れ日の差す庭で、成長したナマエは穏やかな顔で笑っていた。
彼女はワタシの作品も観たと言った。その時のワタシはまだ駆け出しで、世間がマトモに評価した物は数える程も無かった筈だ。それなのに、ナマエはワタシですら覚えていないような作品の名を挙げて、此処が良かった、彼処はどういう意図があったのかと矢継ぎ早に述べた。
「っ、ワタシですら覚えていないような事を、よくご存知ですな」
「ええ!だって先生の作品に、わたくしは勇気付けられたのですもの。この世界にこんなに美しい物を生み出す方がいらっしゃるのなら、わたくしも頑張らなくちゃって思ったのです」
念願叶って、漸く先生にお会いする事が出来ました。
ワタシの手を握るナマエの手は冷たくて、とても小さかった。
ナマエの両親は何処の馬の骨とも知れぬワタシがナマエに近付く事に良い顔をしなかった。当然だろう。ワタシもむざむざ火の粉を被る謂れも無いと思ったからナマエとは距離を置こうと思った。作品を好きだと言われた事は初めてだったから、思い出だけ、残しておこうと思ったのに。
ナマエは信じられない程の行動力でワタシに会いに来た。絵を習うという名目で月に二度程彼女がワタシのアトリエを訪ねるようになるまでに時間は掛からなかった。
「わたくしは先生が芸術に向かうこの空間が好きなのです」
何もあなたが来なくとも、とやんわり苦言を呈した事もあるが、ナマエは得意そうに微笑んでアトリエの冷たい空気のなかで深呼吸をしていた。
正直な所、ナマエに惹かれるのにそう時間は掛からなかった。天真爛漫でよく変わる表情が、ワタシの作品を観て蕩ける瞬間が大好きだった。ナマエの事を愛していたと思う。だからこそ、ナマエとワタシの住む世界は違うのだと知っていたはずなのに、いつの間にか深みに嵌ってしまっていた。
年頃になったナマエには見合いの話が幾らも来ていたようだ。よく変わる表情が、落ち着いた能面のような表情に変わるまで、ワタシは気付く事が出来なかった。ただ、ナマエがワタシを訪い、言葉を交わせる事に舞い上がっていた。
「先生、」
秋の終わりにワタシのアトリエを訪れたナマエが思い詰めた表情をしているのに気付いた時にはもう、ナマエもワタシも戻れない所まで来ていた。ナマエは、出会って初めてワタシの名を呼んだ。
「…………いつまでも、このまま先生と、……コルサ、さまと一緒にいられたら良いのに」
冗談めいた言葉なのに覚悟に満ちた強い目だった。ワタシはその目を見返す事も、中途半端に差し出された手も取る事が出来なかった。
ただ、何も聞こえなかったように振る舞った気がする。ナマエの表情も顔の色も、何一つ覚えていないのだ。それが、ナマエと顔を合わせた最後の日であったのに。
ワタシのアトリエを訪れた翌週、ワタシ宛に一通の封書が届いた。差出人はナマエである。そこにはたった一言綴られていた。
永遠の尊敬と愛を込めて
ナマエの婚約が大々的に発表されたのは、それから幾日も経たなかった。知り合いのアーティストから知らされたその一報を、ワタシは呆然と聞いていた。
相手の男は画壇の寵児で、ナマエの父が特に気に入っていた男だった。美しくて繊細な絵を描くその男は、プロポーズにナマエの絵を描いて渡したそうだ。かつてワタシが何度もそうしたのと同じように。
ナマエの肖像を、ワタシは何枚も描いた。ナマエに請われて描いた物もあるし、ただワタシが彼女を描きたくて描いた物もある。そして肖像画を描いている間はナマエの事を公然と見つめても許された。その表情、仕草全てを余す事なく見つめられた。
その男も、彼女を見つめたのだろうか。彼女に見つめられ、微笑みかけられたのだろうか。それはとても嫌だと思った。
今更ワタシに何を言う資格も無いはずなのに。ナマエが最後の日に迷ったように手を差し伸べた事に気付いていたのに、ワタシはそれを取る事を躊躇した。必死に理由を紡ぎ出して、ナマエと己が釣り合っていないと証明した。その結果がこれだった。それだけだ。
イーゼルに立て掛けていたキャンバスを手に取る。もう少しで完成するはずだった、ナマエの肖像画。渾身の作品になるはずだった。これが完成した暁には、彼女に伝えたい言葉も考えていた。けれどもう、渡す相手はいない。
じっとナマエの画を見つめる。すると少し後毛の解れが気になったので、筆を走らせ修正する。すると次は指先の爪の形が気になった。頭の中にあるナマエと、肖像のナマエは少しずつ何かが違うような気がした。
***
アトリエの片隅に、未完成の作品がある。それはワタシがワタシのために描いた作品で、誰のための物でもない。だがワタシは決めているのだ。この絵が完成した暁には、この絵の少女を迎えに行こうと。だからワタシは今日もこの絵に向かい筆を走らせる。頭の中のナマエを、キャンバスに写し取る。ただ、ひたすらに。
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