雨だ。梅雨だ。湿気だ。
この時期の私は酷く憂鬱である。何故ならば梅雨の湿気が私の髪を直撃するからである。私の髪は癖が強く湿気の季節には結髪に苦労する。全く嫌な季節である。しかも蒸し暑くなって汗をかく時期でもあるから髪を洗ったため、乾かすのにまた難儀しそうである。私は髪の量も多かった。
(はあ、うねってる……)
改めて自分の髪質にため息を吐きたくなってそれでも乾かすのに精を出す。出来る限り癖が出ないように乾かすのが大変なのだ。結髪にする訳であるからそれなりに長い髪から丁寧に湿り気を拭っていくのは大変に面倒臭い。
(面倒臭いー……)
姿見の前で髪を下ろした自分を見る。癖の強い髪がうねってまるで海藻のようだ。昔から指通りの良い直毛に憧れていた私にしてみれば、この髪質は秘かな劣等感であった。
「なまえ」
不意に部屋の扉の向こうから三回のノックの音と、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。その声は紛う事無き月島さんの声で私は返事をする。
「何でしょう」
「夜分遅く済まない。どうしても、今日中に目を通しておいて貰いたい書類があるんだが、」
「はい。でも、今髪を下ろしているので少し見苦しいかも知れません」
「お前さえ良ければ構わない。開けるぞ」
きい、と軋むような音を立てて扉が開く。扉の向こうにはいつもと何ら変わりの無い、月島さんがいる、筈だった。
「……っ、」
それは月島さんであった。いいや、彼であったけれどそれはいつもの月島さんではなかった。まるで懐かしいのに触れられなくて痛みさえ伴うような顔をした、月島さんその人だった。月島さんは無意識なのだろう、持っていた書類を床に落としてしまった。私の恰好に何か問題が?
「……月島さん、?どうしたんですか……?」
「……いや、何でも、無い」
「何でもありそうな顔で嘘つかないで下さい。どうしたんですか?」
首を傾げる私に、彼はぐっと唇を引き結ぶ。そうしてただ一言、口にした。
「後ろを、向いてくれないか」
理解の能わない一言に疑問を感じるも、月島さんの表情は有無を言わせない程鬼気迫った物で私は言われるがままに後ろを向く。ゆっくりと月島さんの近付いてくる気配がした。
「…………」
「……髪に、」
「はい」
「髪に、触れても良いか」
奇妙な問いに私はしかし、声も無く頷いて同意を示した。月島さんが私の嫌がる事をしないと信じていたし、何より今の月島さんのどこか切羽詰まったような様子が気懸かりだった。
静かに、まるで絹糸でも触るような仰々しい手付きで、私のうねった髪に月島さんの武骨な手が飲み込まれるのが分かった。月島さんはああ、ともうう、ともつかないため息にも似た声を発して私の髪の感触を確かめているようだった。暫く、そうしていただろうか。突然月島さんの嗚咽が部屋に広がったのは。
「つ、月島さん……?」
「っ、すまない、だが……っ、」
それは泣いているというよりも耐えていると言った方が正しいような。今尚続く痛みを抱え動けなくなってしまったような月島さんの身体を、私は堪らなくなって振り返って抱き締めた。
「……月島さん、」
「…………すまない」
口ではそう言いながらも私の身体に回った手はぎゅうぎゅうと私の身体を締め付ける。僅かに聞こえた女性の名がきっと「私」なのだろう。こんな時、私ではどうしたって力不足なのだ。
(鯉登さん……)
月島さんの相棒(お互いに否定するかも知れないが)とも呼べる鯉登さんの名を頭で呼んでみる。どうか月島さんの抱えているものが少しでも軽くなるように。その願いが通じたのだろうか。
「なまえ、不用心だぞ……っ、月島貴様ッ、何をッ、……?」
私の部屋の扉が開いている事を不審に思ったのだろう鯉登さんが私の部屋を覗きに来てくれた。ありがとう、以心伝心だ。瞬時に激高する彼を視線で宥め、同じく視線で月島さんの事を指し示す。やはり鯉登さんも普段と違う月島さんに気付いたのか、律義に落ちていた書類を拾って私の部屋の扉を閉めて中に入って来る。
「……ど、どうしたと、いうのだ」
「……すみません少尉。自分が悪いんです」
おろおろと私と月島さんを見比べる鯉登さんに、頑なに俯く月島さんに私も眉を下げてしまう。きっと月島さんは寂しくなってしまったのだろう。私も時々ある。
「月島さん」
「……何だ?」
「知ってますか?抱き合うと日々の心労の三分の一が減るんですって」
「……へえ。それで?」
「だからはい!心労減らしちゃいましょう!」
ばっと両手を広げて月島さんを受け入れる態勢を整える。私の視線と月島さんの様子から何かを悟ったのか鯉登さんも不満げな顔をしながらも「こ、今回は許す……」なんて咳払い。
月島さんはその生真面目な顔をぎゅうと歪めて、それでも抵抗する事無く私の腕に収まる。耳元で低く呟かれた「すまない」の声に私は静かに月島さんの背を擦った。
「鯉登さん」
「……?」
「鯉登さんも参加して!」
「わ、私もか?……で、では」
抱き合う月島さんと私を包み込むように増える新たな温もりに、耳許の何かを耐える声が少しだけ大きくなった気がしたけれど、私も鯉登さんも誰にも言う気は無いから、きっと大丈夫だ。
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