なまえねえさんが来てくれたせいだろうか、俺の熱は嘘のようにすぐに下がってしまった。
「一安心ね。でもまだ無理をしては駄目よ」と俺の頭を撫ぜるその手の柔らかさに俺は目を細めた。これで、なまえねえさんは帰ってしまう。もう、俺の傍にいる理由が、無くなってしまう。そのことが無性に残念だった。
「お粥さんを作ったの。食べられる?」
俺の顔を覗き込むなまえねえさんに小さく頷くと、なまえねえさんはてきぱきと食事の準備をしてくれた。枕元に置かれた盆には白い粥が湯気を立てている。側に置いてある梅干しに口の中に唾液が溢れた。
「一人で食べられるかしら?」
くすくすと眉を下げて笑うなまえねえさんに顔が熱くなる。揶揄われているとは思わなかったが、俺の弱いところを指摘されたように感じたからだ。少しばかり唇を尖らせる。
「俺はもう、子どもではありません……」
「そう?病気の時は、甘えても良いと思うわ」
きゅう、となまえねえさんの綺羅綺羅とした黒い瞳が細められて、白い頬が紅色に染まる。健康的な色の唇が弓形に持ち上がって白く硬い手が俺の頬をゆっくりと撫ぜた。
結局俺は何となく流されるがままに、別にもう病人でも何でもないのに、なまえねえさんに一匙一匙を口に運んでもらって粥を平らげた。誰かに弱みを見せるという事を、これ程躊躇無くしてしまったのは俺にとっては初めてのように思われた。
それからなまえねえさんに促されて着替えた俺はもう一度布団に潜り込んだ。俺はもう大丈夫だと言ったのに、なまえねえさんもバアチャンもまだ寝ていなさいと言って聞かなかった。心配される事が照れ臭くて布団を頭から被る俺であったが思い直して顔を出す。なまえねえさんを見ていたかった。
「もう、目を瞑らないと寝られるものも寝られないわ」
困ったように苦笑するなまえねえさんに、俺は俺の感情めいたものが音を立てて動くような気がした。今までの上擦りよりももっと強く、ぎゅう、と心臓が締め付けられるような心持ちがして苦しいはずなのに、それがどうにも俺を浮つかせる。
「はい、目を閉じて。次に起きた時はずっと楽になっているから」
少し体温の低い手が俺の視界を奪い、目を閉じさせる。ぼんやりと目蓋の裏側を眺めていたら、俺はいつの間にか眠ってしまっていた。次に起きた時、当然と言えば当然なのだがなまえねえさんはもういなくて、それが酷く残念で、俺はどうしてなまえねえさんを引き留めておいてくれなかったのだと聞き分けの無い事を言ってバアチャンを困らせてしまった。
次の日になって目が覚めた時、俺の熱はもういつも通りであったから俺は早速なまえねえさんに会いに行こうとしたのにバアチャンは首を振って怖い顔をする。
「まだ無理をしては駄目だよ」と俺の肩に羽織をかけるバアチャンがこの時ばかりは煩わしかった。
「でも、」
「でもじゃないよ。今日は休んでいなさい」
「…………、」
不服さを顔に出してはいけないと思うのに、自然と俯いてしまった俺の顔にはそれがありありと浮かんでいただろう。バアチャンはため息を吐いて「寝ていなさい」と言ったけれど、俺はせめてもの意趣返しと(こんな事でバアチャンの手を煩わせるのはいけない事だと分かっていたけれど)せめてなまえねえさんが近くを通りかかったらその姿を見られるように縁側に腰掛けて庭の枇杷の木の隙間から外を見ていた。
バアチャンはため息を吐いては俺を見たけれど、不思議とそれ以上何もいう事は無く、洗濯物を干しながら時偶俺の様子を見るだけだった。
ぼうっと柱に身体を凭せ掛けて庭とその先を見つめる。庭には花が好きなバアチャンが色々な花を植えていた。桔梗や撫子、鬼灯が並ぶ花壇の隣に紫陽花が咲いている。あの紫陽花は確か春先に俺も手伝って苗を植えたのだ。
(…………、)
ふと、気になった。俺は確かに似たような苗を植えたはずであったのに。あの紫陽花たちはどうして……。
六月には珍しい爽やかな風と温い太陽の光が俺の意識を蕩けさせる。次第に落ちていく目蓋に俺が最後に捉えたのは、青紫に揺れる紫陽花だった。
***
目蓋の裏が明るくて俺は眩しさに顔を歪める。柔らかな香りはあのひとのもののような気がしてゆっくりと目蓋を持ち上げる。強い日の光が俺の目を差して、痛みに涙が滲んだ。身体を起こせば俺の事を見つめる対の瞳があった。
「百之助ちゃん、起きた?」
「、なまえ、ねえさん……」
柔らかく微笑むなまえねえさんは眩しかった。彼女は日の光を浴びて綺羅綺羅と輝く。なまえねえさんは弾けるような笑顔を俺に見せてそれから、「お花がいっぱいね」と歌うように言った。
「なまえねえさんは、花が好きなんですか」
「ええ、とても可愛いもの。百之助ちゃんは?」
「……、俺も、好き、です」
目が潰れそうなくらいに美しい微笑みが見ていられなくて俺は俯いて呟くしか出来ない。花の事など何一つ知らず、つい最近まで興味も無かった。それでもなまえねえさんの好きな物を、俺も。
花が好きと言う俺になまえねえさんは嬉しそうに笑う。
「私は紫陽花が好きよ。百之助ちゃんは?」
「……、さ、桜」
花の名前で咄嗟に思い付くのが桜くらいしか無く俺はもう少しマシな答えもあるだろうにしどろもどろにそう答える。だがなまえねえさんは嬉しそうに頬を染めて頷いた。
「良いわね!春になったら皆でお花見に行きましょう!」
「はい。……あ、あの、」
そう言えば、と思い出した疑問を口にする。なぜ、同じような苗から育てた紫陽花が違う色になってしまうのだろう。
俺の疑問を聞いたなまえねえさんは立ち上がって沓脱ぎで履物を履くと庭の紫陽花の方へ歩いていく。慌てて俺も履物を履き、なまえねえさんの後を追った。
「紫陽花の花……、正しくは萼が集まった物なんだけれどね、この萼は土によって色を変えるのよ」
「土、」
「ええ、日本の土で育った紫陽花は青っぽい色が多いそうだけど、外国で育った紫陽花は桃色だったり、赤紫色が多いんだって」
だから紫陽花の事を七変化とも言うの。同じ花でも土によって変わっていくのね。
紫陽花の近くに膝を突き、風に攫われて優しく揺れるその植物を見るなまえねえさんの横顔に俺は言葉も出ず、ただ目を奪われるばかりだった。
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