夏の間、なまえねえさんの一番下の妹が百日咳にかかってしまった事でなまえねえさんは俺が彼女の家に行くことを禁じた。そのため俺は実に味気ない夏を過ごすこととなった。毎日野を目的も無く歩き回って、時折鳥を撃つ。それからバアチャンの手伝いをして、同じ本を何度も読んで時間を潰す。それから漸く寝る時間になったらなまえねえさんの事を考えながら眠る。そしてまた同じ朝を迎える、といった具合だ。
遠目になまえねえさんの家を眺めて、もしかしたら彼女が出て来てくれるかも、なんて淡い期待を抱いてみて、俺にとってもうなまえねえさんの存在はそれ以上でも以下でもなかった。
会えなくてもせめて、俺の事を忘れないで欲しくて、俺は道すがら見つけた名も知らない花を束ねて秘かになまえねえさんの家の前に何度か置いた。それをなまえねえさんが気付いてくれたのかは分からなかったけれど。
***
九月の初めになまえねえさんの妹はやっと回復した。一時は本当に死んでしまいそうなくらいに衰弱していたからこの知らせには俺だけでなくバアチャンも近所の大人たちも胸を撫で下ろしていた。
快気祝いにと俺はバアチャンに言われて鳥を撃っていた。まだ残暑が厳しい中で、俺は滴る汗を拭うこともせず、ひたすらに鳥撃ちに励んだ。脳裏には朗らかに笑うなまえねえさんの顔ばかりが浮かんだ。
結果は上々で三羽を担いで帰った俺にバアチャンは喜んで、二羽の鳥とまた無花果をたくさん持たせてなまえねえさんの家に向かわせた。俺は頷いて早速なまえねえさんの許へ向かったが、彼女の家に、彼女はいなかった。
「ああ、なまえの事?あの子はねえ……」
少しばかり視線をうろつかせた俺に気付いたのかなまえねえさんの母親は困ったような少し嬉しそうな顔でため息を吐いた。なまえねえさんの兄は鼻を鳴らしてそれに同意したようなしないような微妙な表情だった。あの美しかった家族が、少しばかり変化して、影が差しているような、そんな気がした。
言われた通りの場所に行ってみる。以前俺がなまえねえさんの家の農作業を手伝った時に休ませてもらったあの木陰になまえねえさんは、いた。一人では無かった。
「ああ!百之助ちゃん!」
俺の姿を見たなまえねえさんは立ち上がって手を振ってくれた。その隣居たのは、俺より年上の、なまえねえさんよりもう少しばかり年嵩の男だった。見たことのない男で、俺の事を少し不思議そうに見た後で何かを思い付いたように立ち上がってなまえねえさんに何事か囁いた。俺は少し、胸が痛むような気がした。でもそれを見ないフリをして、二人に近付く。
「久し振りね、百之助ちゃん」
にこにこと笑うなまえねえさんの白い手は、男の大きな手の内に隠されていた。それなのになまえねえさんはその事に何一つ言及せず、傍で見ている俺の方が混乱した。訝し気な視線でも送っていたのだろうか、なまえねえさんは微笑んで男の方をちら、と流し見た。大きな感情の籠った目だった。
「妹を診てくださった東京のお医者様、の息子さんよ」
「初めまして、君が百之助君?なまえさんから話は聞いているよ」
朗らかに笑う男はなまえねえさんに向けて微笑みかけると、「積もる話もあるだろうから」とその場を後にした。少し残念そうななまえねえさんに俺はまた心臓が痛む気がした。
「東京からね、わざわざ来てくださった評判のお医者様なんだって。息子のあの人も将来お医者様になりたいって」
「……そう、だったんですね」
「凄く優しい人なの。まだ見習いだからって私の家に入れてもらえない時もあって、でも時々お花を玄関先に置いていてくれるのよ」
世界から、音が消えた気がした。花?それは、俺が。
「そ、れは……あの人、が言ったのですか……?」
「え?ええ、誰が置いてくれたのかしらって、家族で話していたら」
それは僕が、って。
やっぱり、「大人」は嫌いだ。
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