告別の微笑み

それからなまえねえさんが俺に会いに来てくれる頻度は目に見えて減ってしまった。勿論俺が彼女に会いに行けばなまえねえさんは俺を笑って迎えてくれたし、可能な限り俺の相手をしてくれた。でも、俺は物足りなかった。なまえねえさんには俺だけを見ていて欲しかった。俺の事を一番に心配して、俺だけのなまえねえさんでいて欲しかった。

だが俺の心中など知りもしないのだろう、なまえねえさんとあの男は着実に仲を深めているようだった。最初はなまえねえさんがあの男と仲良くする事にあまり良い顔をしていなかったなまえねえさんの兄も男の人柄に絆されたのか、男は完全になまえねえさんの家族に受け入れられつつあった。俺は次第に遠ざかっていくなまえねえさんたちに必死に手を伸ばすのに、俺となまえねえさんたちの間の隔たりはどんどんと大きくなっていた。

全部あいつが悪いんだ。あんな、人の手柄を横取りする男のどこが良いのだろう。俺は俺のなまえねえさんを横取りしたあの男が酷く憎らしく、悔しかった。俺はあの男のようになまえねえさんに微笑みかけてはもらえない。俺はあの男のようになまえねえさんの顔を覗き込む事は出来ない。俺では。俺ではあの男のようになまえねえさんを振り向かせる事は出来ない。鳥撃ちの帰りに寄り添う二人の影を見て、俺は何も言えないままにただ、唇を噛み締めた。

返せよ、俺の救いはあのひとだけだったのだから。何も知らない癖に俺の大切なものを奪うのは止めてくれ。返して、返してください。俺の、俺だけのなまえねえさんを。何でもするから。みっともなく誰ともつかない黒い影に縋る夢を何度見ただろう。俺の夢はいつの間にか俺を呪う声から俺の懇願へと姿を変えていた。

あの二人を見る度に、否、あの男を見る度に、俺の胸の内は昏く澱んでどうしようもない程に滅茶苦茶になった。いっそ、俺がもう一度手を汚せば。それほどまでに俺は思い詰めていた。俺はもう、なまえねえさんをなくして生きていける気がしなかった。なまえねえさんはもうずっと俺の世界の全てだった。

それでも、あの男はいつか東京に帰ってしまうんだ。もう少し、もう少しだけ俺が我慢をしていれば。そう思っていた。これはなまえねえさんとあの男の一時の気の迷いで、いつか想い出の一部になってしまう、そんな日々なのだと。そう思っていた俺はなんと愚かで滑稽な子どもだったのだろう。結局のところ、なまえねえさんは俺の手を擦り抜けて、いなくなってしまったのだから。

ある日久しぶりになまえねえさんが俺の家を訪ねて来てくれた。白くて硬い手で俺の頭を撫でて、あの俺の大好きな胸の内の熱くなるような微笑みで「百之助ちゃん」と俺を呼ぶなまえねえさんはいつものなまえねえさんで俺はほっとした。ああ、なまえねえさんは俺の許に戻って来てくれた。やっぱり、あんな男なんて一時の気の迷いだったんだ。

安堵が胸から全身に広がっていく顔がして俺は素直になまえねえさんに向けて微笑むことが出来た。思えばこれが初めてだった。なまえねえさんに向けて、こんなにも感情を表出したのは。思えばこれが初めてだった。誰かが俺の事を気にかけてくれる事が、こんなにも嬉しい事だと感じたのは。

けれど、なまえねえさんは俺と遊んでくれなかった。俺がなまえねえさんの手を握って家の中に迎え入れようとしたら、彼女は首を振ってから、膝を折って俺と視線を合わせた。その目は硬く、真剣だった。

「百之助ちゃん、お話があるの」

なまえねえさんの声は瞳と同じくらい硬く、真剣だった。聞きたくないと思った。聞いてしまったら最後、俺はもう二度となまえねえさんに会えなくなってしまうのではないか、なぜだかそんな予感があった。俺は首を振る。

「それは今でないといけませんか?俺、なまえねえさんに読んでもらいたい本があって、」

「駄目よ、今聞いて欲しいの。ねえ、百之助ちゃん」

なまえねえさんは玄関口に膝を突くと俺の頬に手を添える。上り口に立つ俺と膝を突いたなまえねえさんとでは俺の方が背が高くてなまえねえさんは俺を見上げる。その顔は笑っていた。眉を寄せて、今にも泣きだしそうに。俺はなまえねえさんのそんな顔など見たことが無くて、俺の心臓はどきりと嫌な音を立てた。

「百之助ちゃんは良い子だから、心配はしてないの。でも、お祖母さまの言う事をよく聞くのよ。好き嫌いもしたら大きくなれないわ。たくさん勉強をして立派な人になってね。夜は毎晩決まった時間寝て、早く起きるのよ。私ばかりと遊んでいたから心配なの、お友達をたくさん作ってね。それから、これは私からの宿題。……弱音を吐ける人を見付けなさい。あなたがその人の腕の中で、弱さを見せられる人を作るの」

なまえねえさんの言葉一つ一つに身を切られるような痛みが走る。そんな、今生の別れみたいな事、どうして今言うのだろう。俺もなまえねえさんも明日も変わらずにこの茨城の片田舎の農村にいて、明日も変わらずに会えるというのにどうして。なまえねえさんはまだ言い足りないのか、視線をあちこちに彷徨わせながら俺にかける言葉を探している。俺は堪らずなまえねえさんの身体を無理矢理に引き寄せた。俺よりも背の高いなまえねえさんの身体は簡単に俺の腕の中に収まった。

「もう、何も言わないでください」

「でも、百之助ちゃん、」

「聞きたくない!俺は、俺の大切な人は……!」

一番大切な言葉を吐き出そうとしたのに、その前にとん、と肩を押された。あ、と思う間もなく俺となまえねえさんの身体は再び隔たった。離れて行ったなまえねえさんは微笑んだままだった。俺の大好きな柔らかな微笑みで。

「……素敵な大人になってね」

俺の頬を撫でる硬い手を、俺はどうしてか握って引き留められなかった。なまえねえさんはそのまま、俺の家を後にした。離れて行く彼女の背中に残暑の陽炎がかかって、その輪郭をぼやけさせていた。まるでその存在を掻き消すように。俺にはなまえねえさんが消えてしまいそうに見えて追いかけたかったのに、俺の足は縛られたように動かず声すら出すことは出来なかった。それが最後だった。

その日の夜、なまえねえさんはいなくなった。俺にはさよならも告げてくれなかった。

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