幻想小夜曲

帰り着いた兵舎の窓の向こうでは未だに雨が降り続いている。内側の明かりを反射して窓ガラスに外を見つめる俺の顔が映る。変わり映えのしない顔だ。手で窓ガラスに影を落として向こう側を見つめる。雨は未だ降り続いているのだから、空は分厚い雲に覆われているのだろう。

そっと窓から離れる。雨の夜は嫌いではない。光無く、暗過ぎて、俺の業を全て覆い隠すような夜は特に。そして俺はいつかその闇に魅入られて、絡め取られて、帰れなくなるのだろう。暗い暗い夜の底にいつの間にか沈んで戻れなくなって、俺は息も出来なくなって死ぬのだと思っていた。死神の如き俺を殺すはどこまでも暗く深い闇。俺のような人間にはお似合いの末路だと、一人納得していた。

でも、その闇を、「あのひと」が打ち払うのだろうか。昔の彼女は太陽のようだった。どこまでも俺を照らして手を引いてくれる温かなひと。このひとを追いかけていればきっと俺は、もう二度と、惑う事は無いのだと、思っていた。

今の彼女は、月のようだ。暗い夜、進むべき道を見失った俺を淡く照らすような。あの頃みたいな明朗さは確かに失われていたけれど、それでも彼女が俺を導いてくれる事には変わりなかった。進むべき道を見失った俺に、そこに道がある事を教えてくれる。しかしそれでも誰か、彼女は彼女にとっての太陽のような人間を必要としているのだろう。あたかも太陽の光に照らされなければ月が旅人の道を照らす事が出来ないように。

そこまで考えてから寝台に身体を預けて両の手を開いた。見つめるその手に掻き抱いたなまえさんの温もりが、まだこびり付いているような気がした。それが俺にとって救いなのか、なまえさんにとって呪いなのか、俺はまだ、分からないでいる。

寝台からもう一度窓の外を見る。部屋が明るいせいで外が酷い雨だという事は窓を打つ雨音でしか分からない。ばらばらと窓ガラスを叩いて五月蝿く響く雨音を効果音に俺は明かりを消して静かに目蓋を下ろした。眠った後もあのひとの顔を見たいと、閉じた目の裏側で確かに思った。

***

夢を見た。夢の中で夢と分かる程、その夢は現実離れしていた。笑ってしまう程に、それは俺にとって都合の良い夢だった。「なまえねえさん」が俺を選んでくれていた夢なんて。

夢の中のなまえねえさんはあの男の手を取らず、男は東京に帰っていった。それから彼女は変わらず俺だけを見てくれて、そしてそのまま時は経ち、成長した俺たちは一緒になった。俺は入隊などせず、茨城の片田舎の農村で汗水垂らしながら鍬を振るって畑を作り、そして俺と彼女によく似た子どもたちを畑仕事の片手間にあやした。手の甲で汗を拭う俺に、膨らんだ腹を抱えた彼女がゆっくりと近付いてきて手拭いで俺の汗を拭う。俺はもうすぐにでも生まれそうな腹を撫ぜて彼女を木陰に座らせる。彼女は変わらない柔らかな笑みで俺を木陰から見守り、娘たちは彼女の傍ではしゃぎ、息子たちは俺の仕事を手伝う真似事をした。

夢の中で、俺は笑っていた。なまえさんも、笑っていた。まだ見ぬ、存在する未来も存在しない子どもたちも笑っていた。

これが、俺にとって「幸せ」なのだろうか。

俺は、彼女とこうなる事を望んでいたのだろうか。

俺は、俺の今まで全てを否定してでも、このひとと共にありたかったのだろうか。

彼女の輪郭も、俺の感情も、何もかもが朧に霞んでいく中でただ一つ、なまえさんの太陽みたいな微笑みだけが俺の感情を揺さぶって、少しでも長くこの時間が続く事を俺に願わせた。

この夢が全て俺の都合の良い妄想で、幻想であると目覚めた時に思い知らされる事が何より、俺のたった一つ残した感情を傷付ける気がして朝が来ても目を開けるのが酷く憂鬱で怖かった。

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