乞う愛

俺を家に招き入れたなまえさんは暫くは俺の相手をして、それから時計を見て立ち上がった。

「夕飯を作らないと。少し待っていてね」

少し乱れた髪を整えた彼女は障子を開けて俺を一人にしようとする。その背中があの夏の日に重なって、また、彼女が消えてしまうのが恐ろしくなった俺はうっかりとその手を握った。振り返ったなまえさんは意外そうな顔で俺の顔と取られた手を交互に見てくすくすと笑った。

「どうしたの?」

「……客人を一人にするのですか」

俺は今、どんな顔をしているのだろう。死んだはずの表情筋はどんな風に動いてどんな表情を形作っているだろう。どうしてかな、全く格好がつかない事に俺は今、俺の顔が拗ねたように歪んでいる気がしてならないのだ。本当に、恰好つかない事に。

「あら、でも夕食を作りに行くのよ。お客様は座っていてくれないと」

仕方なさそうに微笑んだなまえさんは俺の手を外そうとして、俺がそれでもその手を離さない事に困ったように眉を寄せた。

「百之助ちゃんたら、子どもみたい」

「……ええ、そうですよね。……俺もそう思います」

俺は彼女のその言葉に勝手に傷付いて、勝手になまえさんの事を嫌いになろうとして出来なかった。そしてどうしたらなまえさんの中で俺は「大人」になれるのだろうとずっと考えた。果たしてその答えは出る事は無かったけれど。

***

なまえさんと同じ卓に着いて飯を食い、風呂を借り、客間に通されて、何事も無く寝る。当然の事ながらその過程には何も起こらなかった。期待していた訳では無かったけれど、正直少し何事か起きたら良いのにと思った。何か起きたらもしかしたら、俺となまえさんは手探りの関係から少しはマシになるかも知れなかったのに。

布団の中、眠れなくて天井の模様を繋いで絵を描く。いくつかどうでもいい絵を描いてからその絵を打ち消して天井をぼんやりと見た。木目の点が似てもいないのに二〇三高地で見た星々と重なってしまって俺は目を瞑った。

一度だけ、あそこでなまえさんの姿を見た事を、俺はなぜか今思い出した。秋の終わりかけ、まだ砲弾の粉塵が舞い始める前の明け方の澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ時、俺はなぜか彼女の事を思い出して、自分が生きている事を感じたのだ。その回想が俺を生かしたのかは分からない。分からないけれど、俺は今生きてここにいる。

そう思ったらあの人の事が、俺は本当に好きだと知った。好きで好きで、堪らなくて、どれだけみっともなくても惨めでも、俺はあの人の視界にいたくて、その愛を乞いたいと思った。

もう一度、ゆっくりと目蓋を押し上げる。天井を見たけれど瞳に映った木目の点はただの木目の点でそこに星空など見えなくて俺は深く息を吐いた。

これからどうしたら、俺はなまえさんとまた一緒にいられるだろう。また、我が儘を言えば良いのだろうか。あ、そう言えば傘を返してしまったから、これで俺と彼女の接点はまた消えてしまった。次は何を理由にしてなまえさんに会いに行けば良いのだろう。

俺と彼女を隔てていた期間は長くて、その間に俺とあの人は変わってしまった。俺はあの人に会いに行く理由を見失ってしまって、あの人は俺を受け入れるには寂しくなり過ぎた。

でも、きっと、それでも、どうしても、俺の足はなまえさんの家の方に向くのだろうな。……迷惑だろうか、俺のような過去の残滓がいつまでも纏わり付くのは。あの美しい家族を捨ててでも得たいと願った男を喪った彼女を責め立てるような過去はあの人を苦しめるだろうか。

それでも俺は、どうしても彼女の寵愛が欲しかった。どうしようもない程の暗闇に、今また、俺は呑まれそうで、あの頃のように俺の手を引いて俺の生を肯定して欲しかった。俺が奪った全てを、無責任にも忘れさせて欲しかった。それは俺の業をなまえさんにも背負わせる行為だと知っていたけれど、知っていてそれでも俺はあの少年の日の安息を、忘れる事は出来なかったのだ。

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