客間に通されてなまえさんは俺の隣に座った。彼女の場違いに明るい香りが漂って俺はなまえさんに気付かれないように喉を鳴らす。そして少しだけ惨めだと思った。意識しているのは俺だけ。
俺たちはどちらも暫く何も言わなかった。ただ静寂だけが空間を占めて、それは責め立てるように無言の刃となって俺に突き刺さった。「あの頃」のような心安いものではない、どちらかと言えばそこにいるだけで苦しさが募るような、そんな静寂だった。
「…………あの、ね」
不意になまえさんの声が転がったけれど、俺はうっかりとそれを聞き逃しそうになった。声をかけられて何秒かは本当に、それが俺にかけられたものとは思えず俺はただぼんやりと馬鹿みたいに虚空を見つめていた。小さな声はともすれば聞き逃しそうなくらいに芯が無かったのだ。なまえさんは俯いて、俺の方を見ないままに目を伏せていて、俺は漸く先ほどの声が俺に向けて(二人しかいないのだから当然と言えば当然なのだが)かけられたものであると知った。
「すみません、ぼんやりしていました」
「あなたも疲れているのかしら?」
くすくすと困ったように笑ったなまえさんはそれから傷付いたように項垂れた。膝の上で握り締められた手が白くなって震えている。頼りない彼女が泣いてしまったら、俺はどうしたら良いのだろう。そればかりが頭に浮かんで消えた。俺はなまえさんを泣かせる事は出来ても笑顔には出来ない。それはどれだけ願っても俺の役目には成り得なかった。
「……、大丈夫ですか?」
震える彼女の肩に触れようとして躊躇してしまう。俺が触れる事は彼女を傷付ける事になりはしないか。或いは彼女に触れる事で俺が理性を切らす事になりはしないか。彼女の肩の周辺で揺れる俺の手になまえさんは痛みを誤魔化すように笑った。それは全くと言っていい程上手な笑みではなかったけれど。
「……大丈夫、じゃないかも知れない。……もうすぐね、命日なの」
息が止まるような気がした。それが誰の命日であるとか、彼女がわざわざ言わなくても、俺が聞かなくても分かる。彼女にとって「それ」を悼む人は一人しかいなくて、彼女にとって忘れられない人間など一人だった。そしてそれは俺ではなかった。それだけの事だった。
なまえさんはそれきり何も言わなくなった。俺はどうしたら良いのか分からなくて、ただ、こういう時は温もりが必要だと昔誰かが言っていた気がしてそっとなまえさんの手に自分の手を重ねた。なまえさんは力無く顔を上げて俺を見つめる。長い睫毛が彼女の顔に影を落とした。
「……ごめんなさい、こんな事、言われても困るわよね。でも、どうしてかしら、百之助ちゃんといるとどうしても、喋ってしまうの。あの人の事を『あの頃』から知っている最後の人だからかしら」
そう言葉を紡ぎながら壊れた水栓から水が零れるみたいにぽろぽろとなまえさんの頬を涙が伝う。それに気付くなまえさんは俺に取られていない方の手で頬を拭うけれど雫は止まることを知らなくて、痛々しい彼女に俺はもう、我慢なんかしたくなかった。
彼女の手首を掴んで引いて、腕の中に収める。泣き顔なんて見たくなかった。いつだってなまえさんには笑っていて欲しかったのに。なまえさんは俺の胸に縋るようにただ嗚咽していた。我慢しなくたって良いのに。ねえ、そうしたら、俺だって、我慢しなくても良いですか?
彼女の顔を上げさせて目線を合わせた。充血して赤くなった瞳が見ていられなくて俺は彼女の眦にそっと口付けた。眦、頬、鼻筋、耳、そして唇。順を辿るように口付けて、唇を奪った時、なまえさんは俺の胸を押したけど俺は無視した。それどころか、柔らかな唇に俺の背筋は粟立つような気がして、弱々しく抵抗するなまえさんの身体を押して、俺は彼女に覆い被さった。
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