運命論者の虐殺

腕の中でなまえさんは静かに呼吸していた。聞こえないくらいに静かに。まるで世界中の誰からも隠れるように静かに。乱れた髪が彼女の顔にかかったのをそっと払って、俺は少年の日のあの夜を想い出してその頬に密やかに口付けた。もし神様とやらがいるのなら跪いても良いと思った。この人がもう二度と苦しまなくて良いのなら。

俄かに明るくなっていく街は次第に活発になり、人々はまた新しい一日に身体を順応させ始めていた。俺の腕の中のこの人は未だに昨日すらも終わらせられていないというのに。

日が昇り始めた頃にふと、時計を見て後悔する。彼女をこのままにするのは憚られたが軍規には従わなければならない。つまり帰らなければならなかった。可能な限り優しく彼女の髪を梳いた。勘違いしてくれれば良いと切に願った。あなたを慈しむこの手があの男の手であるとせめて夢の中では。そう、願った。

もう一度彼女の髪を梳いてから起こさないように横たえようとして引っ張られる感覚に気付く。袖に視線を移せば彼女は俺の袖を握っていた。硬く硬く縋るように。苦しみが心臓を襲ってそれを見ないように仕方なく上衣を脱ぐ。いつの間にかシャツ一枚ではやや肌寒いと感じる季節になっていた。脱いだ上衣を彼女に掛けて俺は静かになまえさんの家を後にした。

目が覚めて俺がなまえさんを置いて行ったと気付いたら、彼女はどう思うのだろう。どうも思わなければいい。そんな感情が湧いて俺は少し振り返った。俺みたいな男のせいで彼女が傷付く必要なんて無いのだから。

***

上着を取りに行く事が無性に怖かった。傘を借りた時と同じように何食わぬ顔で彼女の家を訪れれば良かったのに俺はどうしてか彼女の家を訪れたら何かが決定的に変わってしまう気がしてそれが恐ろしくて足が動かなかった。

あれだけ「理由」を欲していたはずなのにいざその理由を前にして俺は何も出来ずかと言ってその縁を棄てる事も出来ずに立ち尽くしていた。

***

それを取りに彼女の家に漸く足を向けたのはそれから二週間も経った頃であろうか。未だに決心はついてはいなかったが、それでもいつまでも俺の私物を持っていてもなまえさんは困ってしまうだろうという半ば大人としての意地で俺は彼女の家を訪れた。彼女の家の玄関先はやはり荒れていた。そしておとないの挨拶をしても彼女は出なかった。

その時、ああこれは運命なのだと俺は妙に納得してしまった。俺と彼女は肝心なところで擦れ違うのが運命なのだと。

納得して仕舞えば後は簡単だった。踵を返して俺は彼女の家に背を向けた。もう二度と会う事も無い、そう思った。

歩いて歩いて、何処をどう歩いたのか分からなくなって気付いたら街の方に来ていた。空は今にも泣き出しそうに暗く黒く、いっそ雨でも降ったら頭も冷やされるかもななどと考えながら俺は目的も無く歩き続けた。何度も見慣れた背中を見た気がしてその度に目を擦って見間違いに気付いて落胆した。忘れたいと言った傍から忘れられなくて、忘れたくなかった。

彼女を見つけたのは、偶然だった。運命でも必然でもない、ただの偶然。頼りない足取りで歩く彼女の後ろ姿は見紛う事などあり得なかった。それでも、声をかける事はやはり躊躇われた。俺があの男を思い出させる引き金になっているのなら、彼女にとって俺はいない方が良い。

その背中を、見送ろうとした。けれどああ、やはり運命なのか、それとも見えざる者の戯れなのだろうか。急激に黒く湧き起こった雨雲が限界を超えて泣き始めたのだ。強く激しく泣き喚く空に通行人たちは一斉に走り出す。それなのに彼女は、なまえさんは依然として寄る辺なく雨を避ける事なく歩き続けていて、蜘蛛の子を散らす通行人に突き飛ばされて地面にへたり込んだ。

「っ、オイ!」

堪らず彼女に駆け寄ればなまえさんは目を瞬かせて不思議そうに俺を見た。まるで俺がここにいる意味が分からないとでも言うように。

「ひゃくのすけちゃん……?どうして、ここに?」

「そんな事はどうでも良い!立てますか?傘は?」

あっという間に内に着ていたシャツまで濡れてしまうような土砂降りなのになまえさんは傘を持っていないと言い、俺もそんなもの持った事も無かったから思わず舌打ちが溢れる。泥に汚れたなまえさんの服も雨水を吸って重くなり、更に悪い事に急激な気温の低下に彼女は目に見えて震えていた。

兎に角雨露を凌ぐために何処か軒先を借りたかったが生憎周囲にはまともに雨風を凌げる場所が何処にも無かった。ただ一つを除いては。

「……兎に角、ここへ。雨が止むまではせめて」

「……ん、」

震えるなまえさんを休ませるには彼女の家に戻っている暇は無く、俺は俺に支えられなければ立っていられないくらいに疲弊したなまえさんを抱えて待合茶屋に入らざるを得なかった。ここでなければ本当に何処だって良かったのに、選択肢の浅ましさに神は俺の事を憎んでいるのかも知れないと通された部屋で彼女を横たえながら僅かに考えた。

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