俺がなまえさんの家を訪れた時、彼女は庭にいたようだった。気配はあるのに何度おとないの挨拶をしても顔を見せないなまえさんに俺は勝手ながらその敷地に入り気配の許を探りながら歩いた。そこが庭だったのだ。玉砂利を踏む音に振り返ったなまえさんは俺を見て微笑んだ。
「ああ、いらっしゃい。今ね、庭の植え替えをしていたところ」
首に巻いた手拭いで季節に似合わない汗を拭いながらなまえさんは立ち上がった。俺は勝手に敷地に入った非礼を詫びながら彼女の手元を覗き込む。その手元には沢山の花の苗や種があって相変わらずこの人は花が好きなのだと、また一つ彼女の事を知った。
「花が好きなんですね。……とても可愛らしいから?」
「……覚えていたの?そうよ、綺麗で可愛らしいもの。百之助ちゃんは桜が好きだったわね」
いつか交わした他愛も無い会話。俺は覚えていたけれど、なまえさんはとっくに忘れていると思っていた。だからこそ、彼女の言葉にじわじわと心臓の辺りが熱くなるような気がして俺はどんな顔をしたら良いのか判断できなかった。
「……覚えていたのですか?」
「まあね、大切な想い出だもの。そう簡単に忘れないわ」
得意げにくすくすと笑ったなまえさんの頬は外気に冷やされたのか赤くなっていた。きっと触れたら冷たいのだろう。その手も赤くなっていた。放っておいたら霜焼けになってしまいそうで俺は彼女の手を取った。白い手はやはり冷たかった。
「冷たい手だ」
「う、うん……汚れちゃうから、」
俯いてなまえさんが手を引いてしまったから彼女の手は俺の手の内から消えてしまった。けれども喪失の痛みはなく、俺は穏やかな心中のまま上着を脱いだ。
「手伝いますよ」
「え?でも、」
上着を脱いで適当に畳んで縁側に置かせてもらう。なまえさんは俺の事をちら、と見た。期待しているような申し訳なさそうな感情が半々に入り混じった顔だと思った。何でも良いから彼女に頼られたくて俺はもう一度同じ言葉を繰り返した。
「け、結構重労働だし、百之助ちゃんもお仕事で疲れてるんじゃ……」
「あなたの好きなものなら、俺も触れたい」
「……う、うん。じゃあ、お願いします」
さっきとは別の意味で赤くなる彼女の頬に笑ったら揶揄われているとでも思ったのかなまえさんは唇を尖らせて拗ねてしまったから、機嫌を直してもらうのに苦労した。
***
植え替えは思ったよりも重労働で女の手一つでこれを全部しようとしていたのだから舌を巻く。俺はいつかの料理の時のようになまえさんの指示に従って彼女の家の庭を掘り返し、種を蒔き、苗を植え、鉢を移動させた。明らかに女一人の仕事量ではなくていつも一人でこれをしていたのかと聞いたらなまえさんは少し遠い目をした。
「前は、夫が手伝ってくれていたの」
気まずい沈黙が流れ、また失敗したと思ったけれどここで黙ってしまったらまた前と同じ事の繰り返しだと俺はもう知っていたから微笑んだ。微笑んで、「きっと春には美しい庭になったのでしょうね」と言った。なまえさんは少し意外そうな顔をしてそして微笑んで頷いてくれた。それが正解とは思わなかったけれど、不正解とも思わなかった。
それからも俺たちは黙々と作業に勤しみ、なまえさんが完成の声を上げる頃には太陽は完全に傾いて空は茜色に染まっていた。完成した庭はいくつか冬の花もあったけれどまだあまり色付いていなかった。それでもなまえさんには完成が見えていたようで、彼女は嬉しそうに笑って成果を確認するように鉢植えや畝の間を歩いた。春の精のように彼女の歩いたところから俺にも春が見えたような気がして瞬きをしたがそれは見間違いであった。
「ああ、凄く綺麗に出来たわね。本当にありがとう。私一人じゃもっともっと時間がかかってしまっていたわ」
足取り軽く歩いて俺の許に近寄るなまえさんに俺も達成感に頷く。これ以上ない程に充実感に溢れていた。生きているという実感があった。
「……、見に来てね、咲く頃に。それから、また来年も手伝って欲しいな」
だから、その言葉に俺は一瞬冷静ではなくなってしまった。初めてだった、彼女が俺の事で明るい未来について言及するのは。返事をする声が震えて恰好の付かなさに俺はもう一度彼女の言葉からやり直したくなった。
「……あ、あなたが迷惑だと言っても押し掛けますよ。俺はその点、図々しいから」
「……百之助ちゃん、変わったわね。良い意味よ。上手に言えないけど、」
はにかんだように微笑むなまえさんの手を握りたかったけれど、土で汚れていたから出来なかった。でも、別にそれでも良かった。この人の隣にいられるだけで、俺は幸せだと思った。
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