夜闇の虚構

なまえが俺の許に身を寄せてから既に数週間は経っただろうか。存外上手に俺たちは「兄妹」を演じられていただろう。周囲の者の口に上るくらいには。

妾の子が、正妻の娘に取り入って兄貴面をしているようだ。

その噂を聞いた時には笑いが止まらなかった。そうだ、何を隠すことがあろうか!俺は確かになまえに取り入って、気に入られた。「新しい」兄貴として。その脆い心の拠り所として。

「百之助兄様……」

夜半になるとなまえはいつも俺の寝所を訪れた。俺が障子を引くのを泣きながら待って、いつものようにめそめそと辛気臭く俺の身体に小さな身体を預けてまた涙を零した。白い頬を涙で濡らし、震える声で俺の名を呼ぶその娘にきっと他意は無いのだろう。だが周囲にしてみればそれは恰好の噂のタネだった。年頃の娘が腹違いとは言え男の寝所に潜り込むなど。

「妙齢の娘がたとえ兄と雖も男の寝所に入ってくるのは感心しません。あなたが悪く言われるのですよ」

「っ、……構いません、それよりも、どうか、っ……なまえをひとりに、しないで……っ」

ぽろぽろと大粒の涙を零して俺の身体を抱くなまえの姿にあの戦場の勇作の姿が重なった。しかし罪悪感など露ほども湧かない。当たり前だ。これは「俺が選択した」結果だ。俺の選択に俺は後悔も罪の意識も感じはしない。

なまえは泣きながら俺の名を呼んだ。そして引き付けを起こしたようにしゃくり上げまた俺の名を呼び、そして本当の兄の名を呼んだ。お前が縋る相手こそ、お前の愛しい兄様を手に掛けた仇なのだと俺は時にそう伝えたい欲求をぎゅう、と彼女を腕に抱く事で押し留めた。折角手に入れた「暇潰し」をそんな事で失うのは馬鹿らしかった。

「ごめ、なさいっ……、あにさま……っ」

それは「どちらの兄」への謝罪なのだろう。今この時に煩わせている俺への謝罪なのか、はたまた「泣いてはならぬ」という「愛しい兄様」との契りを違えた事への謝罪なのだろうか。兄様兄様と煩く泣くなまえの背を仕方なく擦る。さっさと泣き止んでもらわなければ俺は明日も寝不足だ。

「ほら、涙をお拭きなさい。部屋に戻って眠るのです。今のあなたに必要なのは休息だ」

柔らかな濡れた頬を両手で挟み、彼女の顔を上向かせる。なまえの真っ赤な目は頼りなく揺らぎ、俺が与えた振動でその眦からまた一粒二粒雫が溢れた。

「あにさま……っ」

真珠のような雫が俺の指先を伝って指の股を濡らす。なまえは泣き顔を隠しもせず、さめざめと泣いた。その泣き顔に俺の中の加虐が蠢いたのは流石に無視したが、なまえの白い、傷一つない手が俺の手に重ねられて、女は小さく首を振った。

「おねがい、どうかっ……なまえをひとりにしないで……!よるの闇がこわくてたまらないの……っ」

震える声で怖いと俺に縋る手弱女は俺の歪んだ優越心を刺激する。種としての本能か或いは人間のみに赦された歪な庇護欲か。この女を生かすも殺すも俺次第、その事実は俺を実に気分良くさせた。

「なまえ」

咎めるような口調で「義妹」の名を呼べば、なまえは顔を強張らせてまた俺の指先を濡らした。彼女の手諸共、白く柔らかな頬から手を外せば、なまえは俺の部屋から追い出されるとでも思ったのか、蒼白な顔を見せて、そして、恥も外聞も無く俺に抱き着き、身体を寄せた。

「いや、いやです、あにさま……、おねがいです、ひとりはいやなの……!」

幼いとばかり思っていた女の身体は、薄手の夜着の下からその柔みを確りと主張する。益々「恰好の噂のタネ」だと心中で苦笑しつつ、俺の胸で泣き止まないなまえに静かに息を吐く。

泣いたところでお前の兄様は還らず、泣いたところでお前の悲しみ孤独が晴れる訳でもなし。全く生産性の無いこの行為に付き合うのもいい加減馬鹿らしかった。だからこそ、俺はなまえの小さな背中に手を回し、母親が幼子にやってみせるようにその背を撫でた。尤も俺にそのようなものを受けた記憶など無く、それは俺の架空の域を出ないのであるが。

「あにさま、」

「大丈夫、まだ、俺がいますよ。あなたの『兄様』であるこの俺が」

真実に耐えられないのならば虚構に生きるしか無い。虚ろな焦点の合わない目で俺を見上げるなまえに噛んで言い含めるように囁く。大丈夫、あなたは一人ではありませんよ、と。心にも無い事を言う事には慣れっこだった。俺の来し方に真実など数える程しか無いのだから。

俺の軽々しい空音にすらなまえは寄る辺を見出したのか、彼女は一層泣きじゃくりながら俺の腕の中に身を埋める。

兄様、兄様とか細い声が次第に小さくなって聞こえなくなるまで、俺は仕方無くなまえを腕に抱き、その背を摩り続けた。俺の腕の中、涙を零しながら眠りに落ちた寝入り端に僅かに笑んだなまえの夢にはきっと「愛しい兄様」がいたのだろう。

本当に、知らぬと言うのは実に愚かな事である。お前が悼む兄と慕った男が、どんな男かも知らないで。

コメント