歪な純真

それはいつの事であったのか、俺はどうにも覚えているようないないような曖昧な記憶しか持ち合わせていなかった。恐らくは勇作を籠絡しようとしてその高潔さ故に歯噛みしていた頃であったか。相も変わらず勇作は兄様兄様と俺に鬱陶しく纏わり付いていた。

朗らかな笑み、なんの歪みもないそれが俺を苛立たせる。お前のその顔を歪ませる事ができたなら、その時俺はどのように思うのだろう。

そんな折だった。突然として勇作が俺を誘ってきたのは。「お話ししたい事があります」と言って。一体何だと訝しむも勇作を俺たちの手の内に取り込める鍵となるならばと俺は頷き、勇作の行き付けだという料亭に足を運ぶ。品の良いそれに呆れたような気分になる。本当に同じ男から生まれたとは思えない、何もかも、違う。

しかしながら適度に飲み、食った後も勇作は何一つ確信を口にすることは無かった。余りに曖昧な本筋の輪郭にいい加減俺は目の前の所謂義弟が俺と話す口実を作るためにありもしない話をでっち上げたのかと睨み始めた頃だった。勇作が軍人にしては白い頬を僅かに酒で赤らめて微笑んで口を開いたのは。

「兄様は僕の家族です。ですから秘密を教えてあげます。『僕ら』の秘密を」

うっそりと微笑む勇作はガラス球のように透明な瞳で俺を見た。その瞳は何も映さず、ただ、光を透過させて輝いていた。不自然なほどに、明るく。

「秘密……、ですか?」

「ええ、なまえの事です。兄様はなまえの事をどうお思いですか?」

「なまえさんですか?さあ……、心根の優しいお嬢さんだという事しか」

唐突に始まったなまえの話に俺は肩を竦めてそれに応じる。俺の当たり障りのない回答にも勇作は顔を明るくさせて頬を緩ませた。話の確信が見えずに俺は勇作の内心を見透かすように睨む。当然勇作の思惑など分かるはずもないのだが。勇作は俺の回答に気を良くしたのか杯に手酌で酒を満たし、ぐいと呷った。

「ふふ、兄様もそうお思いですか?なまえは僕にとって何よりも大切な、かけがえのない存在なのです!」

相当酔いが回っているのか随分と声の大きい勇作に辟易しながらも適度に頷いてその主張に同意してやる。勇作は俺の同意に嬉しそうに唇を弓形に持ち上げ明朗に目許を緩ませる。その顔が、以前見たなまえの笑顔と僅かに重なった。しかしふと、思う。そう言えば、兄妹と言う割には、彼らはそれ程似通っているようには思えない。俺が言葉を選びながらそれを指摘すれば勇作は俺の予想に反して酷く嬉しそうに頷いた。まるで「自分の話を分かってもらえた」かのように。

「なまえはねえ、母似なのですよ。僕は父と母の両方に似ているのですが、なまえは母親にしか似ていないのです」

勇作は嬉しそうに微笑む。しかし俺の気のせいであろうか?先ほどよりも、勇作の笑みが歪んで見えるのは?或いは俺の酔いが勇作の中にありもしない狂気でも見出したのか、綺羅綺羅と純粋そうな輝きを放つ勇作の瞳の奥にどうにもおどろおどろしいものを見てしまったような気がして俺は何度か目を瞬かせた。

「ねえ、兄様?なまえは僕の妹です。ですが、本当にあの子は兄様の妹なのでしょうか?僕の妹だからって、それ即ち、あの子が兄様の妹になるのでしょうか?」

兄様、この意味が分かりますか?

今や勇作の満面の笑みの裏にある病的なまでの妄執は奴の高潔さを取り喰らって俗物のような、若しくは俗物よりもっと低俗な何かに形を変えてしまったようだった。

「なまえはね、兄様。なまえは母の不義の末の禁忌の子なのですよ」

ここまで来て、予想出来ない事では無かったが、「あの家族」の醜聞に俺は僅かに冷水を浴びた気分にされた。俺の羨望とも呼べる感情を抱いた家族の歪さに、あの娘の存在の根底にあるものが俺と似通っているのだというその事実に。

「この事は僕と母しか知りません。母が逝去してからは僕だけが知る秘密。そして今、兄様と僕だけの秘密になりました」

息をするように簡単に、勇作は己が家族の醜聞を露呈させる。俺が誰かにそれを言うとは思わないのだろうか?しかしそれを口にする前に、勇作はうっとりとした夢でも見るような瞳で虚空を見た。

「初めてなまえを見た時、すぐに気付きました。この子と僕は似ていて違うと。同じ根源を持ちながら、混ざり合うものが違うのだと」

妹でありながら妹ではないなまえを一目見て、僕はあの子の虜になりました。僕はあの子をこの世の何もかもから守ってやりたいのです。いずれ知ってしまうであろう真実からも。

「だって、僕はね、兄様、なまえの何も知らないあの無知な笑顔が一等好きなのですから。本当に愛おしくって堪りません。それを守る為なら、僕は何だってするでしょう。……そう、たとえ、この手を、」

兄貴がするには些か熱っぽ過ぎるその顔に勇作の感情の在り処を見た気がした。なまえへの想いの重さを。鉛のように重く、絡み付いたら底に沈んで息絶えるまで離さないとでも言うようなその想いを、この男はなまえと過ごした十何年間抱えていたのか。

「ねえ、兄様。この事は誰にも秘密ですよ。勿論なまえには絶対に。もしこれが僕ら以外の人の口に上るような事があったなら……。ねえ、兄様、お分かりですよね?……男兄弟は悪い事も共有するものなのでしょう?」

あの朗らかな笑みで勇作は俺に微笑んだ。いつか俺が戯れにかけた言葉をそっくりと返して。

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