世界崩壊序曲

初めて見た時はあの少女も歪んでいるのだろうかと、陰鬱な気分になった。一般的な美醜の感覚から言えばかなり整っている部類の容貌に表情は少なく、自信の無さなのか、或いは彼女の性格によるものなのか、その視線はいつも俯きがちだった。ただ、幾度か調査して彼女の様子を垣間見ていて、兄と並んで笑っている顔だけは年相応だと、そう思った。

散々悪趣味な遊戯を見せられた後、漸く俺たちは鶴見中尉の思惑を知る事となる。鶴見中尉がわざわざ夕張まで足を運んだのは死んだ炭鉱夫の刺青を手に入れるだけではなく、剥製屋を使って偽の刺青人皮を作らせるという計画を兼ねた物であったという事を。確かに膠着状態を見せ始めた刺青争奪戦に一石を投じるような計画ではあるが、そのためにわざわざあんな悪趣味な見世物に付き合う必要があったのだろうか、と首を傾げざるを得ない。

「という訳で、君には偽の刺青人皮を制作してもらいたいのだが……そうだな、連絡役としてここにいる月島軍曹と、あと一人置いて行こう」

「は、はい!……あ、でも、」

威勢良く返事する江渡貝であったが、突然言い澱むように言葉尻を小さくする。彼の逡巡の理由は手に取るように理解できた。ここにはいない、もう一人。江渡貝の唯一の家族を彼は気に掛けているのだろう。

「あの、ボクには妹がいて、今は子守の手伝いに出掛けてるんですけどそのうち帰って来ます。それで、妹は凄く他人に敏感なんです……、だから、あの……」

萎れるように俯いていく江渡貝であったが時間はそう待ってはくれないらしい。玄関口に気配がして、僅かな開閉音が聞こえる。まるで気配を殺すように静かに歩いてこちらに向かって来る微かな足音は、内部の異変を感じたのか途端にやや乱暴なものになる。

「兄さん!?」

勢い良く開けられた扉の向こうにいた少女は事前調査で何度も見たあの少女だった。兄の江渡貝に似て色素の薄い髪に、鳶色の瞳。だが兄が優男風なら、妹は幾分気が強そうに見えた。

「っ誰!?」

左右に彷徨う視線が中心にいる兄を見付けた時に強くなる。一目散に兄に駆け寄った少女は兄を護るように、そして兄に縋るようにその身体に身を寄せた。

「なまえ、大丈夫だよ、この人たちは」

「朝早くに突然失礼致しました。実は仕事の依頼に伺ったのです」

起こった事を随分端折った鶴見中尉の挨拶に、なまえと呼ばれた少女は確かめるように兄の顔を見つめる。その兄が満面の笑みで頷くものだから彼女は僅かに、本当に僅かに警戒を解いたらしい。兄から身体を離し、そして、ゆっくりと辺りを見回して。

「……!……お母さん」

ああ矢張りこの少女もそれを母と呼ぶのかと、聊か不快に思った。それは皮袋に詰め物をしたただの人形であるというのに。そっと母親だった物に近寄ってその傍らに膝を突いた少女に江渡貝も悲しげな表情をする。「母親」の頬に残る弾痕に指を這わした少女は振り返って兄を視界に捉えた。

「兄さんにも、もう、聞こえない?」

静かな透明な声に江渡貝はゆっくりと頷いた。それが何を示すのか俺には分からなかったけれど、兄妹の間ではそれで通じたようであった。江渡貝のその反応に、少女はただ一言「そう、」と呟いて、それからその眦から一筋、たった一筋涙を零した。尤もそれは彼女によってすぐに拭われてしまったが。

「取り乱してしまってごめんなさい。お仕事の依頼ならここは散らかっていますから客間にどうぞ。今お茶を用意しますね」

あれだけで、何が起こったか全て把握したと言わんばかりの少女の動揺の無さに舌を巻きかけたが、そもそも人間剥製と一緒に住んでいる時点で普通の人間ではないのだと己に言い聞かせる。しかしそれでも母と呼んだ存在を喪ったと知ったあの瞬間の彼女の涙がどうにも忘れられず、頭の中をぐるぐると旋回する事に苛立ちが募る一方であった。

江渡貝兄妹に案内されて通された客間はあれ程おぞましい物を所狭しと並べていた割に小綺麗で好感の持てる物だった。剥製屋らしく下品にならない程度に精巧な剥製が飾ってあり、柔らかな温かい光が差し込むその部屋で漸く今後の「打合せ」が始まった。とは言えこちらの要件はほぼ伝えてあるし、後は報酬であるとかそういった細々とした部分において合意を取り付ければいいだけであるが。

「何処まで話したかね?……そうそう、此処に部下を置いていくという話だったな。出来れば妹御にも同席していただきたいのだが」

鶴見中尉の言葉に慌てて妹を呼びに行く江渡貝が客間から消え、一時客間は俺と中尉の二人きりになる。二階堂はまだ耳探しをしているようだった。悪趣味だ。中尉と二人きりという空間の僅かな気まずさに話題を探す。それは必然的に件の兄妹へと至る訳であるが。

「妹の方が懐柔するのが難しいのでは?あれは中々警戒心が強そうですよ」

「まだまだ甘いな、月島軍曹。彼女の方が篭絡するのは容易い。……兄をちらつかせれば良いのだからな」

薄く笑う鶴見中尉に底冷えする物を感じながら、俺はあの少女の事を少しばかり考えた。子守の手伝いに行っていたと言うからには「普通」の家族を知っている事になる。それでいて皮袋を「母」と呼ぶその異常さに背筋が粟立つような気分の悪さを感じる。矢張り理解が出来ぬとため息を吐いていると二つ分の気配が客間に近付いて来るのが感じ取れた。

「でも、兄さん、」

「大丈夫だよ、なまえ。鶴見さんは僕の作品についても理解してくれた。父さんが死んで以来だよ!」

「うん、でも……」

「こんなに嬉しいのは久し振りだ!」

はしゃいだような声と少し気落ちしたような声。対照的な二つの声は徐々に客間に近付いてきてそして遂に入って来る。満面の笑みの江渡貝と困ったようなそれでも少しだけ嬉しそうななまえが。

「鶴見さん!なまえの許可も取れました!この仕事、お引き受けします!」

ほら見ろ、と言わんばかりの鶴見中尉の笑みがこの時は何となく、煩わしかった。

コメント