覚悟

兄さん、兄さんとか細い声が一晩中隣から聞こえて良く眠れなかった。もう三日になる。雨に濡れていつまでもそのままでいたなまえは風邪を引いてしまったのか高熱を出して暫く動ける状態ではなくなってしまい、見かねた鶴見中尉から俺は彼女の看病を仰せ付かった。精神的な疲労が重なったのも原因だろう、なまえは日に日に衰弱していくようだった。

「に、さ……、」

もう何度目になるかも分からない譫言が小さくなまえの唇から零れ落ちる。灯りを落とした部屋で、俺は中尉の次の指示を受けていた。即ち暫くなまえと共に休息を取れと。

だがそんなもの、取れる訳が無かった。薄暗い部屋の中で目を閉じれば江渡貝の手の最期の温度と声の震えを思い出した。目を開ければ、俺が江渡貝を見捨てた事を意図せずして責める声を指折り数えていた。中尉も俺を責めているのだろうか。江渡貝という中尉に忠実であった一人の職人を喪わせた俺を。

「やさ、く、にい……」

ひっくひっくとしゃくる声には本格的に涙が混じっていて、俺は堪らなくて寝返りを打って彼女の方を見た。灯りを落としたのは幾分も前であったから、俺の目は暗闇にも慣れてなまえが包まる布団の白い敷布さえ浮かび上がるように見えた。なまえの眦から零れる涙の跡さえも。

なまえは泣いていた。高熱に意識が揺らいでも尚、兄を、たった一人の家族を求めて泣いていた。幼少に歪んだ巣でたった二人お互いに拠ってきた片割れを求めて。起き上がって静かになまえの枕元に座する。なまえは俺の気配に気付いたのか、或いは俺には感じ取れない合図でも感じたのか、やけに折も良く僅かに目を開いた。

「…………、」

「寝ていろ」

その目に浮かぶ失望を見ていたくなくて、俺は咄嗟になまえの瞳を手で覆う。なまえの黒くて知性的だった、涙に揺れた瞳は隠れて、俺の掌を彼女の長い睫毛が擽るような感触がした。

「……して、」

それは今までの彼女の声とは違って妙に輪郭のある、はっきりとした意思のある声だった。それでも小さくてよく聞こえなかった音を俺が渋々聞き返せば、未だ俺に目隠しされたままなまえは薄らと微笑んだ。

「ころして、ください」

しめやかな夜、未だに外は土砂降りで、俺となまえは独りずつだった。投げ出された世界と繋がる術も無いような気がして、俺はただなまえに目隠ししていない方の手を握り締めた。噛み締めた奥歯が軋んで、何のためにここまで来たのか分からなくなった。俺たちのした事で彼女は笑みを帯びて死すら願った。それは俺が世界からされてきた事と何が違うのだろう。中尉は覚悟ある人間が必要だと言った。どんな汚れ仕事だろうと出来る覚悟を持った。だがそれは、果たして歪みから抜け出そうと必死に足掻いたあの兄妹を排斥する覚悟だったのだろうか。俺には見えないもっと遠くを見ている中尉には、なまえの笑顔は些末だったのか。……何もかも、分からない。

そして俺は更なる覚悟を示させられる事になる。それはなまえの病状が漸く安定を始めた時であった。

「……、江渡貝剥製所を?」

その指示を聞いた時、自分でも知らずに両手を握り締めていた。鶴見中尉は俺の中の複雑な感情に気付いているのかいないのか、分からないがつまらなさそうに頷いた。

「ああ、焼く」

「しかしあそこにはなまえの!」

「だが江渡貝くんの作品の『跡』が沢山残っている」

中尉を睨む俺を、彼は見返した。出会った時から、底の知れない瞳の色をしている男だと思った。そして戦争が終わってからはより加速度的に。分かっている、それが作戦に必要であることも、中尉には剥製所を焼く事を躊躇うに足るしがらみが無い事も。だが俺には十分過ぎる程のそれがあった。

「……っ、なまえの、彼女の病状は未だ完全に安定的とは言えません、そんな時に!……っそんな時に、家を焼かれたと知ったら、」

「衰弱死するかね?帰る家も家族も無くして、あの娘が生きている意味はもう無いと?」

「っ、それは……!」

口篭もる俺に鶴見中尉は俺の事を試すように見つめる。その瞳は俺の能力を量っているかのようだった。俺の底まで見通すような瞳に目を逸らしたくなるのを必死で耐える。暫し面白くも無い、男同士二人で見つめ合う気分の悪い時間が続いたが、鶴見中尉は急に興が醒めたように俺から目を逸らした。

「ならば、月島軍曹。そこまで言うのであれば貴様があの娘の新しい生きる意味と成れ」

「……は、」

「剥製所は焼く。ただし焼いたのは貴様の進言だからだ。貴様があの剥製所は焼くべきだと言った」

鶴見中尉の意図を察して俺は視線を落とした。脳裏に一瞬何故か椅子に腰かけて本を読むなまえの穏やかな顔が浮かんで消えた。俺はもう、あの顔は見られない。

「…………それはさぞ、なまえは俺を恨むでしょうね」

自嘲的に笑う俺に中尉は呆れたようにため息を吐いた。そうして少しばかり俺を見やってから、「命を狙われる覚悟が無いのならば止めておけ」と忠告とも取れない言葉を発した。覚悟。また覚悟か。そのたった三音の言葉に俺はどれだけ振り回されているのだろう。あまりに馬鹿々々しくて、俺は顔を上げて首を振った。

「あなたの話に乗った時から覚悟は出来ていますよ。『あの剥製所は焼くべきだ』」

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