鏡合わせの胸の内

佐一兄さんのお父さんの病は、日に日に悪くなっていくようだった。労咳は空気を伝って移るから、村の人たちは佐一兄さんの家の前を通る時は息を詰めて走っていく。私の両親も兄さんや私が佐一兄さんと遊ぶのを咎め始めた。

「……何にも分かってないよ」

「珍しく意見が合ったな」

夕飯を終えて部屋に戻ろうとして呟いた言葉を兄さんに拾われた。その顔は不服げで、先ほど母さんたちに言われた事に納得していないようだった。

佐一くんとことは一緒にいない方が良いんじゃないのかい

分かっている。母さんたちは私たちを心配しているのだという事。見えない病魔は苛烈に生命を奪い、それを追い払う事は今の医学には出来ない。だからこそ母さんたちは私たちを彼らから遠ざけたいのだという事、分かっている。それは親として普通の感覚だ。でも、そうしたら佐一兄さんはどうなるの。

見えなくても、克服できなくても、そこで苦しんでいる家族がいて逃げたい気持ちと逃げられないしがらみと恐怖と苦悩を抱えて、一人で夜を越す佐一兄さんの姿を私は眠れぬ夜に、見た事がある気がした。

「兄さん、」

「んー?」

湿っぽくなり過ぎるのを回避するためか妙に明るい兄さんの声が廊下に不自然に浮いて転がった。次の言葉が言い出し難くて唇を引き結んで鼻から肺全ての息を吐き出してみる。兄さんは私が何かを言う事を待ってくれているようだった。何も言わず、縁側の窓と雨戸を引いてそこに腰掛けた。そして私にも座れとでも言うように隣をぽんと叩いた。

「もう夏だなあ」

「うん……」

静かな空間に虫の音が聞こえる。ぼんやりと一つ二つ黄色のような緑色のような光が不規則に点滅していた。生温かい風が耳の横を通り抜ける。

「兄さんはさ、お母さんたちの話どう思う?」

「あー?佐一ん家にもう近付くなって?はっ、馬鹿馬鹿しい」

兄さんの言葉に私は気付かれないよう胸を撫で下ろす。兄さんが私と同じ考えで良かったと。佐一兄さんが少しでも傷付かなくて良かったと、そう思って。

「良かった。私と一緒で」

「あ?あったりまえだろ。でも、そうは言ってもやっぱりお前はあんまり近付かない方が良いんじゃねえの」

「……どうして?」

思いも寄らない兄さんの言葉に目を丸くすれば兄さんは言葉を探すように視線を動かしながら口を開く。

「だって俺は佐一の親友だけど、お前は、」

「っ!私労咳なんて怖くないもん!!」

兄さんの言葉の続きが怖くてそれを遮るように言葉を吐き出す。静かな夜に私の声が響いて、虫の音が一瞬沈黙したけれど、すぐに再開される。兄さんは驚いたような顔で私の顔を見詰めていて、私はそれに挑戦するように兄さんの顔を睨んだ。

「私労咳なんて怖くない!誰が佐一兄さんを拒絶したって絶対私は逃げたりしない!」

言いたい事はもっと沢山あったけれど、言葉に出来たのはたった二文で、それがもどかしくて唇を噛む私を、兄さんはぼんやりと見ていたけれど、息を吐き出して私を見た。真剣な、でも少し悲しそうな顔で。

「お前、佐一が好きなのか」

「…………、」

沈黙は肯定と同じだったと思う。でもそれ以前に兄さんの声には確信めいた色があったから、肯定なんて必要なかったのだと思う。何も言わない私に兄さんは少し困ったように息を吐く。「そうかあ」と困ったように苦笑して。今しかないと思った。

「私ね、お医者になりたいの」

佐一兄さん以外に初めて教えた私の下心を兄さんも笑わなかった。ただ、また「そうかあ」と呟いて、それから顎に手を当てて「医者は金が掛かるなあ」と実感の篭らない声でそう口にした。

「私本気よ、本気で」

「佐一を救いたいんだろ。分かってるよ」

「違う。労咳を治る病にするのよ、もう二度と佐一兄さんが苦しまなくて良いように」

真正面から突き付けられた事実に首を振る。今まで分かったつもりでいた。佐一兄さんの為に医者になりたいという事。でもそれを兄さんという私とは別の個体から突き付けられると、私の下心はもっと明確になって具体的な形を成す。

「そこまであいつが好きかあ。お互い、難儀だな」

苦笑する兄さんに乱暴に頭を撫でられる。ああ、そうだ。兄さんも私に似ているんだ。好きで好きで仕方ないから、その人が誰を見ているか気付いてしまうのだ。兄さんは苦い顔で笑った後、立ち上がってまた笑った。この世にはどうにもならない事があるという事を知っている、大人みたいな笑みだった。

「医者の件はまあ、機会を見て親父たちに話してみろ。俺は応援するよ。金の事も、もしお前が本気なら俺が何とかしてやったって良い」

「…………ん、あ、ありがとう」

照れ臭くて俯いてしまって小さく礼を述べる私を兄さんはどんな顔で見詰めていたのだろう。ずっとそれだけが気になっていた。どうしてあの時、ちゃんと顔を見てお礼を言えなかったのだろうと。家族で唯一私の夢を肯定してくれた、たった一人の兄さんの顔。どうしてちゃんと見ていなかったのだろうと。

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