私が私の将来について確信めいた言葉を発する機会は存外すぐに来た。ある意味で、最悪とも呼べる時に。それは治療の甲斐も無く、佐一兄さんのお父さんが亡くなったという知らせが村中を駆け巡った頃だった。
佐一兄さんは憔悴激しくて寅次兄さんですら容易に近付けないようで、暫くはそっとしておいてあげた方が良いという兄さんの言葉にその日私は頷いたばかりだった。それでも佐一兄さんの事が心配で、彼の家の近くを何かと理由を付けてうろつく私が母は面白くなかったのだろう。
「あんた、佐一くんとことは一緒にいない方が良いんじゃないかって前に言ったわよね」
夕飯の頃、母はそう言った。声を鋭く尖らせて、顔を歪めて。まるで佐一兄さんに触れてしまったら取り返しが付かない怖い事が起こるとでも言うように。
「……それが?」
「それが?じゃないわよ。あそこの家がもう何人も肺病で死人を出してるのは分かってるだろう?あんたの事を心配して言ってるんだよ」
「……うん、分かってるよ。分かってるけど、」
煮え切らない私の態度に空気は一気に重くなる。寅次兄さんは唇をへの字に結んで黙々と何かを咀嚼しているし、父は興味が無さそうに(或いは本当に興味が無いのか)他所事を考えているようであった。
「分かってるならどうしてあんたがあそこの家の近くによくいるって、母さんの耳に入ってくるの?」
「……偶々じゃない?あの辺りに居心地の良い木陰があるから」
母の顔を見ずに早口で答える私に彼女は焦れたのか飯椀を膳に置く。力が余ったのか少し大きな音がして、肩が揺れる。ちら、と見た母の顔は形容し難い表情をしていた。悲しそうな、もどかしそうな、苦しそうな、怒りに満ちたその顔を私がさせているのだと思ったら、鉛を食らったように腹の底が重くなるような気がした。
「ふざけるんじゃないよ!あたしはあんたの将来を心配して言ってるんだ!」
「っ将来くらい、自分で考えてる!母さんに言われなくても!」
それでも今更引くことは出来なかった。私が佐一兄さんを好きなのはそれが佐一兄さんであったからで、たとえ佐一兄さんの家に労咳が沢山出たってそれも纏めてそれが佐一兄さんなのだと私は誰にだって主張しなければならなかった。たとえ誰に何を言われたって、佐一兄さんに付随するもの全てを私が好きだという事を。だからこそ、私のせいで佐一兄さんが少しでも悪く言われるのは我慢ならなかった。
「じゃあ言って見なさい!ここで、家族全員に聞こえるように!あんたの将来を!」
「お、おい……お袋、」
躊躇いがちな兄さんの問いを制止して私は息を吸い込んだ。大丈夫、これは正当な私の将来だ。打算的で目的は不純でも、私の「目標」は誰にも誇れる立派な。
「……医者」
「なまえ、」
「私お医者になりたいの」
その声は静かな食事の空間に、転がるように浸透した。母の顔が青くなり赤くなり、わなわなと震えるように唇が揺れ目が見開かれた。
「お医者って、あんた……」
「お医者になりたい。救いたい人がいる」
秘めていた目標を告げる事は、もっと怖い事だと思っていた。声も小さくなって震えてしまうだろうと。でも思っていたより私の声は力強く、兄さんに打ち明けた時と変わらない言いきりだった。
母は唇を震わせて、それから私を睨み付けた。その表情は、矢張り私の目標を応援しようという気は無いようであった。
「あんたあそこの子供に誑かされたのかい……!」
「は……?」
「救いたい人ってのはあそこの子供の事だろう!一体何言われたんだい!?」
今や狂乱的ともいえる程に髪を振り乱して私に掴みかからんとするばかりの母を兄さんが慌てて止める。私が悪く言われるよりも、私のせいで佐一兄さんが悪く言われる事の方が嫌だった。
「っ、これは私が決めた事よ!誰にも関係、」
「諦めなさい」
「え、」
無い、と言い切ろうとした時だった。小さな、でも有無を言わせない声が聞こえたのは。父の声だった。言われた意味が分からなくて、いいや意味は分かったけれど理由が分からなくて戦慄く唇で「どうして、」と聞くのが精一杯だった。
「どうしても何も、うちはただの農家だ。子供を医者にするだけの稼ぎも財も当ても何も無い」
「で、でも……!」
「諦めなさい。崇高な目標を叶えられるのは選ばれた子供だけだ。お前は選ばれなかった、それだけだ。良くある話だ」
世界から音が消えた気がした。選ばれた子供?選ばれた?私は選ばれなかった?では私は何のために。私はどうして。
「選ばれなかった子供は、夢も見ちゃいけないの……!」
「それが人生というものだろうなあ。どこかで夢を諦めるなら、早い方が良い」
そこにいたのはきっと今の私と同じように誰かに夢を諦めさせられた人だったのかも知れない、でも。だからと言って私が私のこの目標を棄てる事は出来なかった。それなのに。
「っ……!!」
それなのに私は何も言い返せなくて、どうしても言葉は喉から出てこなくて、その場を後にして荒々しく自室に戻るしか出来なかった。私に出来る事はあると言葉にしたかったのに、「選ばれなかった子供」その言葉が私を怖気付かせたのだろうか。
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