此処まで来た理由

そして惨めな子供時代と大嫌いな生まれ故郷に別れを告げて、私は帝都に出て来た。帝都は広くそして冷たく、生きていく事もままならないと思ったが、それでも私は帰る所を棄てたのだと思えば、後が無い分私には必死になって生きるという選択しか残されてはいなかった。

私が選んだのは小さな病院の下働きであった。それは私があの村の事をまだ忘れる事が出来なかったというのもあろうが、一つには矢張り生きていくためというのが大きかった。帝都は身寄りも無い、何も知らない田舎者の子供に仕事を与えてくれる程暇でも慈善的でもなかった。

しかし私は運が良かった。最初の数年は私は必死に働いて、そして学んだ。仕事先の院長は人の良い老医者で私が村で医者を志していて、しかしそれを叶える術を持たず燻っていた事を知ると、私に医術の手解きを申し出てくれた。押し付けがましくないその申し出は私の拉げた矜持に追い討ちをかける事は無く、私はあくまで私の意思で簡単な医術を学んだ。

老医者は年端も行かぬ、男ですらない半端な弟子を取ったにも関わらずいたく喜んで私に色々な事を教えてくれた。技術も心構えも、凡そ医療に携わるならば獲得しておかなければならない事は全て、私はこの老医者から教わった。

そして私が十七になった日の夜、老医者は微笑んで私に日赤の看護婦養成所に行く事を提案した。それは私には寝耳に水の話であった。私はあくまで医者になりたかったのだから。幾年か前に国家資格を取得して耳目を集めた荻野女史のように、私の目指すところはたとえ狭き門であろうとも医者であった。

不満を露わにそう主張する私に尚も微笑んだまま、老医者は言った。君の技術は何の為にあるのか、と。私は答えられなかった。私は既にその相手を失っていたからだ。生まれ故郷を棄てたその日に、私は既に私が救いたいと思うその人を喪っていた。

黙りこくる私に老医者は言った。それを知るためにも、看護婦に志願してみなさい、と。そして私は私の中に判別の出来ないもやもやとした状態の居心地の悪い物を抱えたまま、日赤の看護婦養成所の門を潜った。三年間の養成機関は確かに遣り甲斐もあり、同級の心安い、友人のような者も出来た気がする。

それでもともすればあの老医者の問いの答えを考えていた。私の技術は、看護は、誰の為の物なのか。その問いの答えを求める度に脳裏に浮かぶ遠い三人の姿は私の感情に傷を作った。あの日、家を出て振り返らなかったのに、こんな所で再び彼らの事を振り返る事になるとは思いもしなかった。

養成所を卒業して晴れて看護婦となった私たちは普段は日赤病院に勤務する事になる訳であるが、どうやら時代はそれ程悠長な事を言ってはくれないようだった。先の大戦で割譲された遼東半島が清国に返還を強要された事で帝国と大国ロシアの間には禍根が残っていた。それを発端として日露間の対立は深まり、帝国は今、開戦已む無しとの意見が大多数だ。

それは即ち、私たちも招集され戦地に送られる可能性があるという事だった。

日に日に開戦の機運が高まる中で私を含めた同級の友人は当然不安げな顔を見せる者もいたし、或いは随分と威勢の良い者もいた。トヨさんはその中でも特に元気が良かった。

「随分と張り切っているのね」

「ああ、なまえさん!だってこれは私たち女が活躍できる機会なのよ!先の戦争で叙勲された新島女史のように私は御国の為に命を懸けるわ!」

トヨさんの家は同級の中でも殊更貧しくて、きっとこの戦で必死の働きをすれば生活苦から抜け出せると信じているに違いない。威勢良く張り切っているトヨさんに聞いてみたかった。あなたは何のためにここに来たのかと。それはきっと彼女に聞いているようで、私に対する問いなのだろうけれど。

そして季節は冬の厳しい二月、私たちは動員され、取り急ぎ陸軍の予備病院に従軍する事が決まった。大国ロシアとの戦の火蓋は遂に切られたのだ。

コメント