幼い頃からなまえと共にいる事が当たり前だった。父の腹心の一人娘で、生まれは東京。色白で、初めて知り合った時から癖の無い東京の言葉を話す娘だった。
私たちはずっと一緒だった。鯉登家が北海道に居を移した時も、なまえの父上は父について来てくださった。だから私たちは本当に、幼い頃からいつも一緒だった。私が兄を喪った時も、なまえの母上が身罷られた時も。
「音之進さん」
なまえが私の名前を呼ぶ声が好きだった。まだ少し幼さが残る顔立ちが柔和に笑んで、柔らかそうな頬を赤く染めて私の名を呼ぶのが好きだった。なまえという存在のためなら、どんな事だって出来ると思っていた。いつまでも、私の隣で幸せに笑っていて欲しいと思っていた。
だが、その関係に翳りが見られたのは私が正式に入隊してすぐの事だった。なまえが何処かいつもより、上の空のように感じた。私の話を聞いているようで、どこか遠くを見ているような、そんな気がした。
「……なまえ?」
「…………ええ、なんでしょう?」
「あ、いや……。その、な、何でもない」
違和感を言葉に出来なくて口籠る私になまえは笑って「変な音之進さん」と言った。笑顔はいつもと変わりがなくて、何処となく安心した。そしてその後のなまえはいつも通りだったから私はその確かな違和をすぐに忘れてしまった。
次の違和感はなまえが私の誘いを断った時だった。いつもなら二つ返事で迎えてくれるのに。「その日はお友達との約束がありますの」と癖の無い標準語で断られると、それ以上踏み込めなかった。仕方がないからその日はなまえに手紙を書いた。私がいつもなまえ事を想っていて、そしてなまえもそうなら嬉しいと綴ったその手紙に、少し悩んでから白い躑躅を添えて贈った。
いつかなまえとは一緒になるのだと思っていた。それは幼い時から決まっていた、ある種の必然だと思っていた。一目見た時から私はなまえの事が好きだったから、それはとても幸せな事だと思っていたのだ。
なまえからの返信は翌々日にあった。誘いを断って申し訳ないという事と、贈った躑躅を部屋に飾った事。それから。
「…………、」
何故か心臓が音を立てて鳴った。なまえの手紙の最後の一文。
(わたくしも、音之進さんの事をいつも想っています。わたくしの、大切なお友達)
勿論なまえは慎み深いから、こう書くのは当然なのだが今はどうしてか、妙な胸騒ぎがしてならなかった。少しずつ、なまえが遠くに離れていくようで。
そしてその焦りが的中するのに、時間は掛からなかった。遂に鯉登の家となまえの家で、「私たちに関する話」が持ち上がったのだ。勿論私としては願ったり叶ったりである。私は二つ返事でなまえを是非にと父に伝えた。だが、いくら待ってもなまえの家からは返事が無かった。そわそわと落ち着かない二週間を過ごした後、返ってきた答えは「もう少し、時間が欲しい」という物だった。
一瞬、胸が潰れるような気がした。息が上手く吸えなくて、視線を何処に置いたら良いのかが分からなくて、私がどんな顔で父の話を聞いていたのかも分からなかった。父はただ難しい顔で息を吐いただけだった。
なまえに手紙を書くのは悪手だとは分かっていた。でもどうにも抑えられなくて、私は彼女に手紙を書いた。初めて会った時から好いていた事や、なまえとの話が持ち上がった時本当に嬉しかった事、なまえも同じ気持ちだと思っていた事、そして、そうではなかった理由を知りたいと。
何度も何度も書き直して封をしたその手紙を送るのにこれまた幾日か時間を要した。そしてなまえの許に辿り着いたその手紙の返事を今、私は三度読み返してまだ、上手く理解する事が出来ずにいた。心臓の辺りにある何か曖昧な物を、徹底的に握り潰された気がした。
お手紙ありがとうございます。
わたくしたちが出会ってもう、十年以上になりますね。初めて音之進さんにお会いした時の事を、わたくしは今でも鮮明に思い出せます。
そしてきっとその時のわたくしは、音之進さんと同じ気持ちだったと思うの。太陽のように笑うあなたの妻になれたらと願った日が確かにあったのですもの。
でも、今、わたくしの心にはそれとは異なる想いが根付いているのです。その方はとても寂しくて、きっとわたくしなどではその御心に寄り添う事も出来ないやも知れません。
それでもわたくしはあの方になら、私の心を差し上げても良いと思ってしまったのです。たとえそれがあの方にとって仮初の祝福だったとしても。
そして彼は、わたくしを妻にと望んでくださいました。そこにどのような理由があったとしても、わたくしはこのお申し出をお受けしようと思うのです。
鯉登の御家名に泥を塗るような真似をしてしまって本当に申し訳ありません。鯉登閣下には本当に良くしていただいたのに。父もこの事は了承しております。如何様な処罰も甘んじてお受けいたします。
そしてどうか、どうかこのお手紙の結びの言葉と共に、恩知らずで恥知らずのわたくしの事はお忘れください。わたくしも、二度とあなたの御迷惑にならぬよう弁えますので。
どうかあなたさまに数多の幸福が訪れん事をお祈りしております。あなたと共に成長した事は、わたくしにとって途方もない幸福な時間でした。音之進さんにとっても、そうであったならと願わぬ日はございません。
某月某日
なまえより
音之進さんへ
親愛を込めて