私がまだ半玉だった頃の話だ。
当時の私は漸く座敷に上がることを許されて慣れないことばかりの日々に戸惑っていた。
それでもたとえ半人前だとしてもお座敷に出て芸の真似事をできることが嬉しくて、それだけが私を支えていた。
けれども私は身体を壊してしまってすぐに花街を去ることになる。
そのことについて寂しさはあったが、言っても詮無いことだ。
華やかな生活は短かったけれど、私はその中で今でも思い出せる「旦那さま」がいる。
***
姐さんたちに連れられていつもの馴染みの店、花菱へ向かう。
今日のお客は私の姉さんの馴染みの方だ。
御盃を交わした姉さんは本当に私に良くしてくれて、座敷でも私を引き立ててお大尽さま方に紹介してくださる。
今日のお客も元々は姉さんの馴染みの方だった。
その方はなんでも小さな貿易会社を経営されているらしい。
私は経営のことなんてよく分からなくてまだ勉強中だったけれど、その方はとても優しくてお話も面白くて私は大好きだった。
多分淡い恋心すら持っていた。
その人とどうにかなりたいわけではなかったけど、少しでも私を見て欲しい、話しかけて欲しいと思うくらいにはその方が好きだった。
私はその人の名前を知らない。
座敷に呼ばれるようになった時には既にその方は「旦那さま」と呼ばれていたし、お客の名を問うほど無粋なことはない。
だから私は他の姐さんたちに倣っていつもその人を「旦那さま」と呼んだ。
そして「旦那さま」は私たちにとても優しかった。
時々お座敷に呼ばれても凄く高圧的でお金に物を言わせるようなお客がいるのを私たちは経験していた。
仕事だからと割り切っているけれど、やはりあまりいい気はしない。
でも「旦那さま」はそんなことはしない。
いつも物腰柔らかく、知的で、巧みな話術で私たちを魅了した。
旦那さまのいる座敷は私を含め、姐さんたちがいつも笑っているから、とても明るくて楽しい。
私たちが「旦那さま」をもてなす側なのにともすればもてなされる側に回っているような。
だから私も他の姐さんたちも「旦那さま」がいらっしゃるのが分かるといつもそわそわとしていたものだった。
その日も私たちは花菱にお呼ばれしてお客が「旦那さま」だと聞いて私は胸を高鳴らせていた。
座敷に通されてから少しの間は「旦那さま」がお料理とお酒を楽しむ。
時々姐さん方にお酒を勧めてくださったりして、時間は楽しく過ぎた。
頃合いを見計らってお座付きが始まる。
私は踊りは姐さんたちにも褒めてもらえることが多くなっていたから、時々手振りなんかをして少しでも「旦那さま」に楽しんでいただけるように努めた。
「旦那さま」に「なまえちゃんは本当に唄も踊りも上手くなった」と褒められてじんわりと心が温かくなった。
お座付きが終わるといよいよ本格的な歓談の時間。
私はまだ半玉だからあまり会話に入ることはできないけれど、「旦那さま」はそんな私にも会話を振ってくださるから、気にかけてもらっているようでとても嬉しかった。
今日は趣向を変えて、といつもは離れた位置に座っている私を隣に呼び寄せた「旦那さま」は姐さんたちと楽しそうに会話している。
「旦那さま」は話も面白くて、褒めるのも上手だから、私はとても楽しくて時々これがお座敷だということを忘れそうになった。
今思えばそれが「旦那さま」にも伝わったのかもしれない。
右隣に座っていらした「旦那さま」の横に、なんとはなしに置いていた手に突然冷たい手が重ねられる。
びくっと身を強張らせて恐る恐る隣を見れば、「旦那さま」は何事も無いように杯から酒を飲んでいた。
最初は私の手に気が付かず偶々手が重なってしまっただけかと思っていた。
でも、酒を煽って顔を元の位置に戻す時、「旦那さま」は一瞬だけこちらを流し見して意味深に笑ったからこれはわざとだ。
他の姐さんたちは私たちの手には気付いていないようだ。
それだけが救いだった。
半玉のくせに色で客を奪うのかと他の姐さんに思われたくなかった。
「旦那さま」は再び注がれた酒を煽ると、やや酔いも回ってきたのか機嫌よく私たちを見回す。
そして最後に私のところに視線を寄越して、その端正なお顔を崩して笑った。
「皆綺麗で可愛らしいが、今日のなまえちゃんは一等可愛らしいね」
「あらぁ旦那さまったら、なまえは初心なんだからそんなこといったら可愛そうよ」
すかさず私の姉さんが助け舟を出してくれる。
私は本当に座敷でこんなことを言われるとその後凄くお客のことを意識してしまうから。
でも今はそんなこと全く気にならなかった。
右手が、熱い。
「はは、いやすまないね。なまえちゃんがあまりに可愛らしいものだから」
「いやねえ旦那さまったらなまえにばっかり構って。私たちもいるんですよ」
「はは、これでは両手に花どころか腕がいくらあっても足りないな」
きゃっきゃと姐さんたちが笑うと場がとても華やぐ。
私はそれどころではなくて俯いた。
右手は旦那さまの左手の下になおも置かれている。
この手を抜いてもいいのか分からなかった。
場の空気を壊さないように何とか笑顔を作るけれどうまく笑えているかは分からなった。
「旦那さま」の左手は私の右手の上で好き勝手に蠢く。
指をなぞったり、ぎゅう、と力を込められたりとやりたい放題だ。
あんまり恥ずかしくて、胸が苦しくてもう力づくでもこの手を抜いてしまおうと思った時、唐突にそれは終わりを迎えた。
「旦那さま?なまえは最近唄がとても上手になりましたの。ぜひ聴いてあげてくださいな。なまえ、準備して」
ただならぬ私の様子に気付いてくれたのか、姉さんが私を自分の元に呼んでくれる。
「旦那さま」は何事もなかったように私の左手から手を離した。
「旦那さま」の手はとても冷たかったから、私たちの熱は全然混ざり合わず、私の胸の鼓動と身体の熱さが無かったら先程のことなんて嘘だと言われても分からなかった。
「じゃあ、聞かせてもらおうかな。僕はなまえちゃんの唄っている姿がとても好きだからね」
にこりと笑った「旦那さま」に私は俯くしかできなかった。
結果としてお座敷は「旦那さま」のご乱行以外はつつがなく終わった。
私は普段より上手に唄を唄えたし、その後のお話も上手に受け答えできた。
「旦那さま」はあれから何も言わなかったし、されなかったからきっと私はからかわれただけなのだ。
でも、それでもよかった。
ほんの少しの触れ合いだったけれど、私にはもったいないくらいの時間だったから。
お座敷もお開きを迎え、「旦那さま」をお見送りするために姐さんたちと一緒に玄関へ向かう。
「旦那さま」は相当酔っておられるのか、足元が覚束ないようだった。
ふら、と一瞬倒れそうになるのを、咄嗟に受け止めたのは私だった。
「すまないね。なまえちゃん」
「本当にお気を付けてくださいね、旦那さま」
「ああ、今日は本当に飲み過ぎた。悪いが支えていてくれないかい」
本当は支えなんて必要ないだろうに、「旦那さま」は私の身体に身体を預けて靴を履く。
香水なのだろう、置屋の御父さんや男衆さんとは全く違う香りがふわりと、香った。
身体が離れる時、名残惜しいと思ったのが顔に出ていたのだろうか。
「旦那さま」が手招きをして私に顔を近づけるようにと合図する。
恥ずかしかったけれど少しだけ顔を寄せると、「旦那さま」の顔も近付いてくる。
「なまえちゃんは本当に可愛らしい」
笑いを含んだ声で内緒話をするように耳元で低く囁かれて、私は本当に眩暈がして倒れそうになった。