料理部の部長である福本には、志ある部員の腕前を磨いてやることも仕事の内だった。
しかしいかんせん人数のあまり多くない料理部では、そういった志を持って入部してくる部員がそもそも少なかったし、三好や神永のように所謂「食べるの専門」の部員もいるから、基本的にはその仕事は無いに等しい。
先代の部長も似たようなことを言っているから、きっと自分の代でもそのような仕事は訪れないと思っていた。
だから今年の新入部員にも正直あまり期待はしていなかったのだが、それは良い意味で裏切られる。
彼女は名前をなまえと言った。福本から見て一年後輩で、入学式の時の部活紹介を見て料理部に入部することを決断してくれたらしい。
入部当初はあのぐだぐだで生徒も教師も真っ青な部活紹介でよく入部を決意したものだ、と内心で彼女の騙されやすさを心配したものだった(なぜなら入部紹介でスピーカーを務めていた神永がいきなり最前列にいた女子をナンパしだして紹介を一時中断させたからだ。あれにはさすがの福本も真っ青になった)が、他の料理部員が食べるの専門なのに対してなまえは純粋に料理が好きで料理部にいるようだった。
福本も漸く同好の士ができたとこれには嬉しく思った。
尤も、彼女の料理の腕前は福本からしてみればまだまだ発展途上といったところではあったが。
それでも日々福本に教えを請いながら彼女は料理に励んでいた。
彼女は勉強熱心で教えたことをよく復習して忘れなかったから、初めは中の下ぐらいだった料理の腕前も段々と上達していき、その上達ぶりを見るのが最近の福本の密かな楽しみでもあった。
ある日も福本が料理をしている横でなまえが彼の手際を見学していた。
料理というのは実践してこそ身につくものであるが、偶には見稽古も必要であろうということで福本が見本役を勝手に出たのだ。
いつものように材料を準備して淡々とそれらを捌いていく。
しかしいつもと違ったのはなまえがいることだった。なまえは福本の一挙手一投足に感嘆の声を上げるから調子が狂う。
見られて手際が悪くなるほど手慣れていないわけではないが、やはり収まりが悪いものは悪いのだ。
ともすればぎこちなくなりがちな自分の手を気取られないように叱咤しながら、無心で手を動かす。
粗方作り終えてから、上手くできただろうかと普段はしない味見(普段は味見などしなくても出来がいいのは分かっている)をしていると彼女の興味津々な目と視線がかち合った。
ふと、悪戯心が湧いて、彼女に問いかけた。
「お前も味見してみるか?」
「いいんですか!やったあ」
顔を綻ばせるなまえに言い知れぬ感情が湧く。
誤魔化すように作った料理を少しだけ取皿によそってやって手渡す。
彼女がそれに口をつけてから少しして、小さな喉が嚥下で動くのを見て僅かに緊張した。
いつだって自分の作ったものを食べてもらう時は緊張する。
美味しいと言ってくれる友人を信頼していないわけではなかったが、それが心からのものでなかったら、と悩む時もある。
だが彼女にはそんな心配は無用だったようだ。
「うわあ……!先輩、これとっても美味しいです!」
ぱあっと興奮からか頬を赤らめ、すごいすごいと福本を称賛するなまえに福本はむず痒い気分でいっぱいだった。
だがそれは悪くない気分だ。
勿論他の部員たちが福本の料理のことを褒めないわけではなかったが、こうまで手放しではないし、そもそも男に褒められて嬉しいとはあまり思わない。
福本とて男、可愛らしい女子に褒められて悪い気はしないのだ。
それから福本は彼女と料理する時は必ず味見をさせるようになった。
何を渡しても美味しそうに食べるなまえはどことなく小動物に見えて餌付けかなにかでもしているような気分だった。
野良ネコなんかに餌をやる人間の気が知れないと思っていたが、今ならその気持ちが分かる。
はぐはぐと美味しそうに福本の与えたものを食べる彼女は自分が守ってやらなければあっという間に捕食されてしまいそうで、ある種の庇護欲を福本に与えた。
彼女はいつも福本を手放しで称賛しては喜色満面と言った顔で笑ったから、福本はその小さな頭を撫でたくて堪らなかった。
その感情は彼が大好きなアイドルのCDを聞いている時とはまた違ったもので、福本は純粋にその感情に戸惑う。
心の奥底の大事なものをしまい込んでいる所を擽られているようなむずむずとくすぐったい感覚は彼が今までに生きてきて感じたことのない感情だった。
だとしてもその戸惑いも含めて福本は彼女のことを好ましく思っていた。
いつの間にか料理部にいない時でも彼女のことを考えている時間が増えていて、福本は少しだけ自分が恥ずかしくなった。
勿論そんなことはおくびにも出さなかったから、なまえが気付くことなんてなかっただろうけれど。
半年もすると彼女の料理の腕も大分上達して、作れる料理のレパートリーも着実に増えていった。
修行の成果だな、と福本が微笑むと彼女は照れたように、それでも嬉しそうに笑った。
その笑顔に僅かに目元を緩めて、ふと思い至った。
「何かしてほしいことなんかはないか?」
「してほしいこと、ですか……?」
意味がよく分かっていないのか疑問符を浮かべるなまえに福本は笑った。
「いつも頑張っているご褒美だ。なんでもいいぞ」
彼女のことだからどうせ他愛も無い願いだろうと内心で笑う。
馬鹿にしているわけではなく、それが彼女の良い所だからだ。
思い付きで言っただけなのに真剣に悩む彼女の生真面目さがおかしかった。
「じゃあ、私、先輩と一緒の調理台で協力して一品作りたいです」
これ、私の夢なんですよ、と笑うなまえに福本は随分小さな夢だと微笑ましくなる。
その無邪気な顔に少し意地悪したくなって、にやりと笑う。
「それはお前がもう少し上手くなったらな」
「もう!大分上手になったと思いませんか?」
福本の言葉に素直に唇を尖らせて、ふくれっ面をする彼女が可愛らしくて気付けば福本は本当に自然に彼女の柔らかな髪を撫でていた。
ぱちくりと、元々大きめの瞳を更に大きくさせた彼女の目が零れ落ちないか心配になる。
「ああ、それは俺も分かっている」
「じゃあ、いつか私の料理を先輩が美味しいって言ったら一緒に料理してくださいね」
からかわれていることにも気付かないのか、にへら、と顔を緩める彼女はいつの間にか福本の心の中のずっと深い所、誰にも触らせないような柔らかい部分に確かに居座るようになっていた。
「その時」は意外と早くにやって来た。
福本となまえが約束をしてから2カ月も経った頃だろうか。
いつものように料理部でなまえの料理の手際を見ていて福本は彼女の成長ぶりに素直に感嘆した。
入部当時とは比べ物にならないくらい良くなった手際は、恐らく料理部の中でも一二を争うだろう。
もう俺の教えることはないかもしれない、と僅かに寂しくなった。
そのことを正直に伝えてやると、彼女は照れたように笑って、「じゃあ味見してください」と言った。
取皿を手渡され口を付ける。
濃過ぎもせず、薄過ぎもせず絶妙な味付けのそれは福本の好みの味だった。
「……旨いな」
ほろりと零れた称賛の言葉に彼女はぱあっと顔を明るくさせた。
くるくると良く変わる表情に福本は苦笑する。
「本当ですか!やったー!」
「なまえは大袈裟だな。お前の練習量を考えたら当然だろう」
「だって、だって、これで先輩と一緒に料理できるから!」
その約束は勿論福本も覚えていた。
その日は時間もあったから、福本もエプロンに着替えてもう一品と調理を始める。
隣にはなまえがいて、ぼうっと見ていたら目が合って笑いかけられた。
今まで誰かと一緒に料理することなんてなかったから、胸が弾んだ。