ヘルマン・ヴォルフという男には年上の幼馴染がいた。
彼女は名前をナマエといい、幼い時から聡明で美しい女性であった。
ヴォルフと同じく貴族階級の出身で、彼女の父親とヴォルフの父親が所謂莫逆の友だったから、その子どもであったナマエとヴォルフも両親に倣うようにすぐに仲良くなった。
初めて会った時、彼女を一目見た時からヴォルフは彼女に恋をしていた。
抜けるような白い肌に柔らかそうな金色の髪、優しく輝く翡翠のごとき瞳はヴォルフを魅了するには十分で。
その上知性的で、母性に溢れた彼女にまだ少年だったヴォルフは夢中だった。
建前上はヴォルフは彼女を姉のように慕っていたが、心の中では初恋の甘い痛みを抱える毎日。
彼女もヴォルフを可愛がって、二人は毎日のように一緒に遊んだ。
だが彼女の全てを好いていたヴォルフ少年にも唯一気に入らないものがあった。
それは彼女がヴォルフのことをKleiner Herr(小さな紳士)と呼ぶことだ。まるで弟のように扱われているみたいでヴォルフは彼女にそう呼ばれる度にすねて、苦笑した彼女に優しく「ヘルマン」と呼ばれるまで返事をしないものだった。
子どものころはいつか自分が彼女の隣に立つのだと信じて疑わなかったのだ。
ヴォルフの少年時代にはいつも彼女の背中と並んで歩いた時の優しい香りがあった。
ヴォルフとナマエは一緒に成長した。
身体も心も成長していってお互いがお互いを少しだけ意識する頃には、もうすっかりヴォルフの背はナマエのそれを追い越していた。
自分の横で嫋やかに佇む彼女にいつか自分がナマエを守るのだと、ヴォルフは固く誓ったものだった。
青年期に入ったヴォルフは父と同じ軍に入ることを決める。
彼女を守るのと同じくらい、国を守る力が欲しかったからだ。
成長して匂い立つような美しい女に成長したナマエはヴォルフの選択に泣いて寂しがった。
入営の前夜に、彼女の家の庭のベンチに並んで腰かけて最後に話した時、彼女はヴォルフの大きな身体を抱き締めて「たくさん手紙を書いてね、私の小さな紳士」と言う。
ヴォルフはその背に自分の腕を回すか回さないか迷って、結局回さなかった。
恥ずかしかったのもあるし、「小さな紳士」と呼ばれたのが不服でもあったからだ。
代わりに彼女のものとは比べ物にならないくらい大きく成長した手で、彼女の頭を撫でた。
ナマエは泣き笑いでヴォルフの頬に親愛の唇を落とす。
それが二人の初めての別れだった。
軍に入隊して中々会えなくなったナマエにヴォルフはたくさん手紙を書いた。
どんな訓練をして、どんな友人がいて、どんな生活をしているか。
口下手で無骨だったヴォルフも彼女との手紙の中では饒舌になれた。
彼女もヴォルフの手紙に頻繁に返信して、ヴォルフはそれをとても楽しみにしていたから、同期の連中から「あのヴォルフの顔を緩ませる女性とは」とからかわれたりもした。
ヴォルフもそれを否定しながらも、満更でもなかったのだ。
けれどもヴォルフの初恋は結局のところ実ることはなかった。
彼女はヴォルフの軍の友人と相思相愛の仲となり婚約する。
彼女にその男を紹介したのはヴォルフだった。
週に一度くらいの頻度でやり取りされる彼女と友人の手紙を取り持つのもヴォルフの役目だった。
彼はその役目に自分から志願したのだ。
たとえどんな形であろうとも、彼女と関わっていたかったから。
そんなヴォルフの苦悩も知らず、恋をした彼女はヴォルフ以外の男の手によってその美しさを増していった。
ヴォルフだけが少年時代の美しい思い出に取り残されたままだった。
そうしてヴォルフの取り持ちでますます仲を深めた彼らは、6月の晴れ渡った日に式を挙げた。
純白のドレスを纏い、幸せそうに微笑む彼女はヴォルフが今までに見たどんなものよりも美しく魅力的だった。
その隣に立つのが自分だったらどんなに良かっただろう。
「幸せに」とぎこちなく言祝ぐヴォルフに彼女は子どもの時のように彼の大きな身体を抱きしめて、「ありがとう、私の『小さな紳士』」と涙を浮かべた。
彼女にとって、自分はいつまでも「小さな紳士」であったと気付かされた。
幼子の時に夢に見た彼女と自分の立ち姿が砂のように崩れていく。
長かったヴォルフの初恋は小さな痛みと見えない傷を残して終わったのだった。
だが幸せな時間は長くは続かない。
大戦が起こったのだ。
多くの者が多くを失った。
ヴォルフは大戦で右目を失ったが、その活躍を称され鉄十字勲章を叙勲された。
ナマエの夫は、戦死した。
ナマエは夫を非常に愛していた。
その分喪った時の痛みも傷も大きくて、ヴォルフにはそれが見ていられなかった。
ヴォルフは時間の許す限り、憔悴しきった彼女に寄り添った。
下心があったわけではない。完全にないと言ったらそれは嘘だが。
ヴォルフはただ、あの頃の華やかで明るい彼女に戻ってもらいたかっただけだった。
だが彼女は違っていたようだ。
ナマエは次第にヴォルフに依存するようになり、ヴォルフの温もりを欲しがったから、ヴォルフは戸惑った。
かつての初恋の残滓が疼いたのもいけなかった。
気付いた時には、ヴォルフはナマエと唇を合わしあう仲になっていた。
それでも一線だけは超えないでいようと思ったのに。
ある時いつものように彼女を見舞っていたら、帰るには少し遅い時間になってしまった。
それ自体は別になんでもなかった。
ヴォルフは屈強な大男だったし、例え夜道で何かあっても自分の身は自分で守れるくらいの力はあったからだ。
帰ろうとするヴォルフを引き留めたのはナマエだった。
「やだ、行かないで……」
玄関のドアに手をかけるヴォルフの背に柔らかな身体を押し付けてナマエは泣いた。
「あの人のこと、忘れさせて欲しい……」
震える声はヴォルフが心の奥底に仕舞い込んだ初恋の痛みを増幅させる。
なぜ自分ではなかったのだろう。
自分があの男を紹介しなければ、彼女は今も笑っていられたのだろうか。
ならば彼女が今こんなにも傷ついているのは自分のせいだ。
「ナマエ、駄目だ。あいつのことを、愛していただろう?」
「嫌よ、もう、忘れたいの……お願い、『ヘルマン』……」
狡いと思った。
そこで名を呼ばれて、自分が逆らえないことを彼女は知っているというのに。
今までの女の中で一番優しく彼女をベッドに横たえたが、彼女が泣き止むことはなかった。
ヴォルフがいくら唇を落としても、愛を囁いてもその涙は止め処なく溢れ続ける。
泣き顔を見ていられなくて、動きを止めればもっともっとと強請られて、ヴォルフはほとんど一動作ごとに抉るような心の痛みに耐えながら彼女を愛した。
最早ナマエが目の前の「男」をヴォルフと認識しているのかどうかも怪しい。
けれど吐精の時、ナマエは僅かに顰められたヴォルフの眉間の皴に口づけをくれた。そしてまだ彼の一部になり切れていない眼帯をそっと撫でてから、静かに眠りに落ちた。
名前は終ぞ一度も呼ばれなかった。
深夜、際限なく湧き上がる虚無感を腕の中で眠る彼女の温もりで誤魔化す。
愛した女性を手に入れたはずなのに、心は満たされるどころか空虚でいっぱいだった。
彼女はきっと誰でもよかったのだろう、と気付いてしまったから。
ただその胸に刻まれた消えることのない痛みを紛らわせられれば、彼女は「男」がヴォルフでなくても良かったのだ。
それでももう二度と自分は「小さな紳士」には戻れない。
ふとかつて読んだ物語の一節が甦った。
夫を喪った母親がその弟に心を動かされたことを嘆く息子の言葉だ。
弱き者よ、汝の名は――――。