素直になれない

神永という男は羽毛よりも軽く女性を口説くことに長けていた。
ほとんど呼吸をするように出てくる女性への賛辞はそれこそ呼吸と同じで止まることを知らず、口から滑るように出てくる。
周囲から女癖の悪さを指摘された時も彼は澄ましてこう言うのだ。

「俺だって『運命の人』が現れたらちゃんと一本に絞るさ」、と。

そう、神永という男は「運命の女性」を待ち望んでいた。
そして彼の待ち望んだ女性はようやく現れることとなる。
それは偶然の産物だった。

神永がよく行くカフェのウェイトレスだったのがなまえという女性だった。
彼女はよく働き、よく笑う魅力的な女性で、彼女を初めて見た時、まるで彼女の周りが光り輝いているように神永には見えた。あるいは雷で撃たれたような衝撃とでも言うべきか、とてつもない衝撃が身体中を駆け巡る。

それは神永が初めて「運命の女性」と出会った日だった。

それからというもの、神永は彼女の働くカフェに入り浸ることとなる。
少しでも彼女と近づくのが目的だったわけだが、彼女は神永が出会ってきたどの女性よりも鈍感で天然だったから神永は「いつものように」彼女を口説き落とすことができずにいた。
一応神永も人の子。
本命を相手にするときは緊張もするし、羽毛のように軽々しく出ていた言葉は喉に張り付いたように出なくなる。
彼女を前にしたら神永はいつもの神永ではいられなくなってしまうのだ。

その日も神永は彼女の働くカフェへ向かう。
彼女は水曜日と金曜日にシフトが入っているらしく、神永もそれを狙ってカフェを訪れる。
カフェのドアを押し開ければ、軽快なドアベルの音と共に彼女の高くもなく低くもない聞き取りやすい声が転がる。

「あ、神永さん!また来てくださったんですね」

「お、おう。なまえちゃんに会いたくってさあ」

「またまたあ。神永さんてば色んな女の子にそう言ってるって三好さんから聞きましたよー。女の子はそういうの本気にしやすいんですから気を付けないと」

「そ、そんなことないって!俺はなまえちゃんにぞっこんだからさあ!」

「あはは、ありがとうございますー」

三好の野郎後でシメる。
そう固く心に誓いながら彼女の案内に従って席に着く。

「いつものですか?」

「ああ、頼むね」

随分と通い詰めているからいつも頼んでいるメニューを覚えてもらっているだけなのだろう。
それでも、彼女に自分に関することを少しでも覚えていてもらえるのは幸せだった。

オーダーを取ってから厨房に戻り、くるくるとよく動く彼女の背を眺めていると、男が一人近付いてくる。
カフェのマスターだ。
マスターは神永の向かいにコーヒーを置いて腰かけるとにやにやと笑いながらカップに口をつける。

「なまえは可愛いだろう」

「……じーさん、仕事しろよ」

「お前も素直じゃないねえ。なまえはあの通り鈍感だけどいい子だよ。早くしないと誰かに盗られちまう」

「……分かってるよ」

白い髭を揺らして笑うマスターは神永の肩を叩くと「まあ、頑張んなさいよ」と言ってその場を離れていく。
勿論神永のテーブルに伝票を置いて行くのも忘れない。
神永も目敏くそれを見つけて去っていく後姿に声を投げつける。

「おい、じーさん。何俺に払わそうとしてんだ」

「協力代だよ。まあ見てな」

したり顔で神永を振り返って笑うマスターは、神永の注文分を作っているなまえに近づくと何ごとか話しかける。
にんまりとした何か企んでいるような顔に神永は嫌な予感を隠せない。
不思議そうな顔でそれでも頷くなまえは神永の注文分を持って彼のテーブルへ向かってきた。

「はい、お待たせしました」

「ありがとう」

ことり、とテーブルの上に優しく置かれたのはコーヒーとホットサンド。
神永は基本的に何でも食べるが、ここのホットサンドは特に好きなのだ。
さっそく手を付けようとする神永だったが、いつもならすぐに離れていくなまえが今日はそうしない。
神永が不思議そうになまえを見ると、なまえも不思議そうに神永を見た。

「あの、マスターが神永さんが呼んでるよって。ご用ですか?」

「は!?」

「あれ?勘違いでしたか?恥ずかしいー」

咄嗟にマスターの方を見ればにんまりと笑いながら親指を突き上げている。
ナイスアシストと言うべきなのか余計なお世話と言うべきなのか、マスターを睨み返しながらなまえに視線を戻す。

「あ、いや、そ、そうなんだよ!なまえちゃんに話したいことがあってさあ!」

「もし良かったら、今日はお客さんもいないので座ってもいいですか?」

「勿論だよ。俺もなまえちゃんと話しながら食えたらいいと思ってたから、超ラッキー」

へらり、と笑ってなまえのために場所を空ける神永。
だが内心は心臓がバクバクしている。
だって予想外に近い二人の距離だとか、そのせいで分かる彼女から香るシャンプーの匂いだとか、そう言ったもの全てが神永を直撃しているのだから。
自身の心臓の音が彼女に聞こえないか不安にすらなる、

誤魔化すようにコーヒーを呷れば、物凄く熱くて舌を火傷した。

「あっち!」

「か、神永さん!?大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫、大丈夫。ちょっと熱かっただけで」

ああ、格好悪い。
慌ててお冷を用意してくれるなまえに何でもないように笑いながら(せめてそれくらいしないと自分のプライドが収まらない)、神永は人知れずため息をつく。

平常心だ、平常心。
いつも可愛い女の子たちと喋る時と何一つ変わらない。
相手のことを褒めまくって、女の子がいい気分になって笑ってくれればこっちもそれでいい気分になれるのだ。
たったそれだけのことなのだ。

それなのに。

口の中は全力疾走した時のようにカラカラだし、心臓は早鐘を打って、手の中は汗ばんでいる。
ヒリついた喉を酷使してなまえのことを褒めちぎろうにも言葉が出てこない。
これを言ったら引かれるかもしれないとか、もっと上手い言い回しがあるんじゃあないかとかそういった思いが言葉の尻尾を掴んで引き留めるのだ。

「やっぱり、今日もなまえちゃんは可愛いよなあ」

やっとのことで出てきた言葉はありきたり過ぎて自分でも呆れる。
なまえの後ろでマスターもやれやれと首を振っている。
分かっている、神永だって振りたい。
こんな筈じゃあないんだ、もう一回やり直させてくれ、と神様か誰かに頼みたい。

「そんなことないですよー。神永さんもいつも素敵ですよー」

神永の向かいでおっとりと笑うなまえは、午後の斜陽に照らされていることもあってか神永には輝いて見えた。
黒々とした黒曜石のごとききらきらとした瞳が、弧を描いた瞼の中に見え隠れするのだって、なまえのものだと思うだけで途端に愛おしくなってしまう。

「素敵って……俺馬鹿正直だからさあ。なまえちゃんにそんなこと言われると本気にしちゃうよ?」

期待を込めた目でなまえを見る。
きょとりとした目で神永と目を合わせたなまえに、ああこれは分かってないなと神永は落胆する。
だがそれがなまえだった、と思い出して一人笑いを噛み殺した。
自分が愛おしいと思っている「運命の女性」は少し……かなり鈍感で、それでも一緒にいるだけで幸せな気分になれるような、そんな女性なのだ。

神永の思いにも気付かずなまえはふんわりと笑った。

「神永さんはとっても素敵だから、女の子も選り取り見取りなんでしょうねー」

「とっても素敵」に喜ぶべきなのか、「選り取り見取り」に引っかかるべきなのか、迷った神永だったがとにかくこれだけは言える。
今までたくさんの女性を翻弄してきた神永を唯一翻弄できる存在が、なまえであるということだ。