彼の研究について、彼は何らの言及をしなかった。私も深入りした事はなく、彼は学術の徒として私は彼の生活全般を支援するために側付きとして置かれた娘だった。優秀な学者であった彼を取り込もうと考えた愚かな父等が彼に私を当てがったのだ。私もそうだが、きっと彼もいい迷惑だったろう。
この世は生きにくい。中でもとかく女は生きにくい世界だ。なぜなら女には自由が無い。学を修めたいと望めば生意気だと白い目で見られる。働きたいなどと口に出したならば或いは異端審問に掛けられるやも知れぬ。
そのような世界で学問をしたいと言う私は一族のはみ出し者であった。ただ一人、叔父こそが私に学をつけてくれたがそれは女が学問をする事の物珍しさに興味を唆られたある種の実験のようなものだった。私を理解出来る者などきっといないであろうと私はある一定の年齢の時に気付いてしまった。私は一人この孤独な熱情を燻らせながら女として整備された道を歩いて行くのだと思っていた。だれしもが、きっと私自身すら、私にそれを望んでいるのだと決め付けていた。
だが、彼は、フベルト先生だけは違っていた。
彼は初めて私の顔を見た時に何とも言えない顔をして、それからたった一言「帰りなさい」と宣った。私もそれが正しいと思ったのでその場で回れ右をしようとしたら、彼が少しだけ右の口端を引いて微妙な顔をし、それからわざとらしく咳払いをする。
「何か御用がございますか?」
愚かな父等からは求められた事は何にでも応じろと言われた。たとえ「どんな事」を求められたとて。私には拒否権は無い。何をされたとしてもただ、この心の奥底で熾る火を絶やさずに生きるだけだ。
「……君は、」
とても低く落ち着いた声が、やや言葉を選びながら私に投げられる。力加減のされたその投げ方は私に彼の言葉を容易に受け取らせる事が出来た。
「書棚の本を並べる時に、どのように並べる?」
「…………え、ええと」
何の話をされているのかと思った。書棚の本の並べ方?寝室に据え付けられた書棚を思い起こした。私は。
「テーマごとに分け、更に背の高さ順に並べます」
「……なるほど。ではどのようにしてテーマを把握する?」
何なのだろう?まるで見極められているような視線が私を見ている。強い光に灼かれそうだと思いながら私は口を開く。
「本のタイトルを読めば、大体分かるのでは?」
言ってしまってから、あ、と気付いた。私が文字を読める事を叔父以外の誰かに口外したのは初めてだった。寝室の本には挿絵ばかり描いてあったし、叔父以外の親族は女の学問に良い顔をしなかった。きっと目の前の彼もそうだろう。暗澹たる気持ちで目の前の彼を見上げた。彼は私の予想とは異なり、少し意外そうな顔をしていた。
「識字が出来るのか。筆記は?」
「あ、ええと、あまりに専門的な事は難しいですけれど……」
まるで尋問だ。私の答えに彼はやや考える素振りを見せて、それから机に羊皮紙と羽ペンとインク壺を用意すると、私に着席を促した。
「え、あの、」
「……これから私が話す言葉を一言一句余す事無く記してくれ」
「え、え!?」
「始めるぞ。……『天文学は自然科学の一分野として最も早く発達した分野である……』」
有無を言わさずに滔々と語り始める彼に私は何故か訳も分からずにペンを走らせていた。一体どのくらい経っただろうか。彼の低くて聞き取りやすい声を聞きながら、私は必死にペンを動かしていた。幾度か綴り間違いをしたけれど、彼の言葉は止まらず、私は手が汚れるのも厭わずに耳で聞いた情報を必死に紙に写し取った。彼の「……以上が天文学の概説である」という言葉で締め括られた後の長い沈黙が、まるで長い間走った後に与えられた休息のように感じられた。
「見せてくれ」
身体を動かしてもいないのに肩で息をして薄らと汗すらかいている私を気にも止めず、彼は私の手元の羊皮紙を奪い取る。穴が開く程に見詰められるのは少し恥ずかしい。悪筆ではないと思うけれど、綴り間違いを乱雑に修正したり、勢いで書いて間違ってしまったりしている所もあるだろうから。しかし彼はインク染みのあるその羊皮紙をじっと見詰めた後、私を見てただ「素晴らしいな」と本当に、何の躊躇いも無く口にした。
「え、ええと、」
「かなり専門的な用語も使ったつもりだったが全て正確に筆記出来ている。それに何より読み易く美しい字だ。教会の写字生の字のように」
どのような真意かは分からないが、言葉では手放しで褒められていてどんな顔をしたら良いのかが分からない。ただ私を見詰める彼の目は、何かを企んでいるようには見えなくて、私は俯いたまま、少しだけ「本音」を口にした。
「……字を、書くのが好きでした。百年後、二百年後の『私』にこの気持ちを届けたいと思って」
「君の、気持ち?」
「私の、隠さなければならないこの熱情を。皆、私を罪人のように扱います。それ程までに、この世の全てを知りたいと思う事は罪なのでしょうか」
直感だった。本当に大切な場面で直感を信じるのは馬鹿げているのかも知れない。それでも私はこの秘めなければならない熾された熱情を、この人には吐露したいと思ってしまった。私の、この世界、宇宙、全ての知に対する挑戦を。この世の全てを知りたいというある種の傲慢さすら感じさせる探究心を。
改めて、彼を見上げる。彼は立ち上がるとかなり上背がある事に今漸く気付いた。彼は私の目を真っ直ぐに見返した。強く灼かれそうな瞳だと思った。それなのに、今はその中に柔らかな色が見え隠れする。
「それを罪だと言うのならば、今ここに、罪人は二人だ」
低く落ち着いた声に混ざる、愉快そうな声音が私を許容する。それが私と彼、否、フベルト先生との初対面だった。