幼馴染が戦場から帰ってきたと聞いた時、ナマエは井戸から水を汲んでいた。夏が終わりめっきり気温が下がり始めたせいで、水を汲む仕事を億劫に思っていたナマエだったが、せっかく汲んだ水が溢れるのも構わずに駆け出した。
祖国の情勢が不安定でそのせいもあってか極東の小国に敗戦を喫したと村の大人から聞いた時から、ナマエは彼女の幼馴染の事をひたすらに心配していた。
ナマエの幼馴染は昔から優しくて、優しいからこそ結局戦争に行く事になった。優しくなかったら、きっと今頃何が何でも帝都に行って大好きだった絵の勉強をしていただろう。年老いた両親と沢山いるきょうだい達のために、彼は金を稼ごうと軍の学校へ行く道を選んだのだ。
そんな優しい幼馴染が戦争に行って、しかも負けて帰って来た。ナマエは彼に何と言葉を掛けて良いのか迷いながら騒ぎの中心へと向かった。上背のある幼馴染は、人混みの中でも頭ひとつ分抜け出ていた。
「ヴァシリ、」
村の大人たちは少し困ったように口々にヴァシリに声を掛けていた。腫れ物に触るようなその態度にナマエは一瞬顔を強張らせた。大人たちの身勝手さとそれを理解出来る己の心情にだ。祖国が負けた事について大人たちが未だ受け入れる事が出来ていない事をナマエは理解していた。
大人たちにとってみれば祖国は未だ強国の印象の方が強いのだから。でもナマエやヴァシリからしてみれば、その強国の崩壊を見ている事の方が多かった。それでもナマエも何処かで楽観していたような気がする。この戦争にはきっと勝てると。
「、ナマエ」
疲れたような顔でナマエを見て、その名を口にした幼馴染のヴァシリに大人たちが道を開ける。ふらふらと蹌踉めくようにナマエに近寄ったヴァシリの目を見た時、ナマエは背筋が震えるような気がした。何処か虚ろで、冷たいその目の色は彼が出征する前には決して無かった物だった。
逡巡するナマエには構わずがっしりと強くナマエを掻き抱いたヴァシリにナマエは確かに恐怖を抱いた。ヴァシリはその事に気付いたのだろうか。定かではないがただ、彼はナマエの温もりを奪うように彼女の身体を抱いていた。
***
ヴァシリがナマエを妻にと求めたのは彼の帰還から三日後の事だった。降って湧いたような話にナマエは目を白黒させるしかなかったが、反対意見を口にする者は誰もいなかった。結果的には負けたとは言えヴァシリは国の為に戦った言わば報国の徒だ。その願いを無碍にする事は出来ない。ナマエには戦争中に親が決めた相手がいたがすぐにその話は白紙となった。ナマエはその相手に対して特に何かを感じていた訳ではなかったが、漸く気持ちが固まって来た所ではあったためここに来てヴァシリとの話が持ち上がった事に混乱した。
婚礼は早ければ早い程良いと言われたためか、ナマエがヴァシリの許に身を寄せたのはヴァシリがナマエをと求めてからひと月も経っていなかった。小さな村の年若の男女の婚礼はとても小さな物だった。それでもいつもより飾りの多い服を身に纏ったナマエをヴァシリは一瞥したけれど何も言わなかった。ふい、と目を逸らした彼にナマエも何も言えなかった。ただ、知らない男の為に固める事が出来た決意では、幼馴染の許に行けない事が妙に不思議に思えた。
婚礼が終わって二人きりにされてしまうとお互いの呼吸の音だけが際立ってしまい俯くナマエの手をヴァシリが取った。びく、と身体を震わせたナマエの顔を見詰めるヴァシリの瞳の色がとても強くて咄嗟に目を逸らしたナマエの顔を、「逃げるな」とでも言うようにヴァシリの手が追う。顔を固定されて有無を言わせずに唇が寄せられて、気付けば彼に口付けられていた。まるで他人事のようにナマエは己を客観視していた。啄むような口付けの合間に「ナマエ、」とヴァシリに名を呼ばれた。ぞっとするような声色だった。
***
「っ、ふ、」
寝台に押さえ付けられて貪られるように唇を交わしているこの状況は、本当なら冷静ではいられなくなるのかも知れないとナマエはぼんやりと思っていた。口付けは初めてではなかった(数年前に村の男友達と済ませてしまったのだ。それ自体は事故みたいな物だった)けれど、これ程迄に情熱的ではなかったし、きっとこれから行われるであろう事についてはナマエは初めてだった。それなのに心は小さなままだった。冷静に、ナマエは恐怖を感じていた。
こちらを見詰めるヴァシリの青い瞳には確かな熱が篭っていたのに、ナマエはその瞳に灼かれるのが怖かった。目を瞑ってやり過ごしてしまいたかったのに、そうするとヴァシリが強い力で手首を握った。小さく呻いて緩々と目蓋を上げると幼馴染が自分の事を見詰めている事に気付く。縋るように握られていない方の腕を伸ばしてナマエは彼の方に手を伸ばした。せめても夫婦となるのだから歩み寄るべきだと思ったからだ。しかし指先をその頬に滑らそうとして、それを避けるようにヴァシリが顔を逸らしたのが見えた。
「ぁ、」
唇が戦慄くのをナマエは感じた。それは拒絶だったからだ。ナマエは元々小さかった心が更に小さくなるのを感じた。お互いに拒絶し合いながらどうして夫婦になろうとするのだろうと、彼女は混乱していた。ヴァシリの熱い手が身体中を這い回り、ナマエすら知らなかった彼女を暴いて、そしてその奥深くに種を吐き散らしてもナマエは混乱したままだった。ヴァシリは何一つ言葉を落とさなかった。ただ、全てが終わってナマエが荒く息を吐いたその時に、無骨な指先が眦を辿るように拭っただけであった。