始まりの日

なんとなく、今夜はナマエがいる気がして、俺は根城を抜け出してナマエが住んでいるという貧民街の近くに足を運んだ。柔らかそうな金糸雀色の髪が遠目からでもハッキリと見えた。

「ナマエ!」

「……あ、スピード、ワゴン」

たった一度名乗っただけだったけれど、ナマエは俺の名を覚えていてくれたようで、曖昧な微笑みと共に形の良い小さな手が挙げられた。寒そうだと思ったが、最後に見た時よりも随分血色が良くなっているようでホッとした。

「暫くだな。元気してたかよ」

「ん、まあまあ、かな」

ナマエが言葉少ななのはいつもの事だが、今日は何故かいつもとは違う気がして首を傾げた。俯いたナマエは俺の様子には気付かなかったのか細く長く息を吐いた。白くなった呼気がナマエの口から吐き出されて消えた。

「…………」

「…………」

暫く二人とも黙っていた。ロンドンの空はいつも薄曇りで、今夜は雪が降るような気がして空を見上げた。同じタイミングでナマエも空を見上げてそれから不明瞭な声で「あの、さ」と呟かれた。俺はその輪郭の曖昧な声を一瞬拾えず、一拍置いてから「お、おう」と間の抜けた声を出した。

「僕、リバプールに行く事になったんだ」

「……は?」

ナマエが俺を見つめていた。赤く綺麗な瞳は貴族が付ける宝石みたいだった。金糸雀の羽のような色をした髪はロクに手入れもしていないだろうに柔らかく滑らかなように見えた。見ようによってはキツく見える顔立ちも、彼が微笑めばたちまち魅力的に見える事を俺は知っている。

「父親が、死んだ。そしたら、アイツに恩があるとか言う貴族が、僕らを引き取ってくれるってさ」

だからもう、アンタには会えないんだ。

ナマエがどうしてだろう、少し残念そうな顔をしているように見えるのは俺の希望的観測というやつだろうか。それをわざわざ、俺に伝えようとする事すら、今の俺には何か、俺がナマエの特別であった事の証明のように思えてむず痒い。

「そ、そうかよ!良かったなあ!」

「あ、う、うん。ありがとう……」

良かった、と思った。俺は別にナマエの全てを知っている訳ではないけれど、それでもナマエが強いられている事は、餓鬼が強いられて良い事じゃあないのは分かっていたから。

「…………てっきり、アンタは嫌な顔をするかと思った」

ナマエが少し不思議そうに目を細めた。俺が貴族なんてものを嫌いな事は多分ナマエにも伝わっていただろう。ナマエは暗にその事を示すような目配せをした。

「貴族は好きじゃあねェが、まあ、オメェがそれでここから出て行けるんなら悪くねェだろ?」

「そ、そう。やっぱり、アンタはお人好しだね。いつかその性格で大事に巻き込まれそう」

控えめにナマエが声を上げて笑った。ナマエの笑い声を初めて聞いた気がした。それは想像していたより軽やかで、想像していたよりずっと甘やかだった。

「アンタには、まあ世話になったと思ってる。その、あ、あり、」

照れ隠しのように俯いて足先で地面をなぞるナマエの頭を大袈裟に撫でてやった。力加減が難しくて、ナマエは「う、わ……」とよろめいた。

「オメェよぉ〜〜、これから貴族の仲間入りしようっつー奴が簡単に他人に頭下げるんじゃあねェぞ」

「え、そういうものなの?」

「あたりめぇだろーが。頭を下げると弱みになんだぜ。気を付けな」

何の足しにもならない忠告だろう。きっとナマエとナマエの兄はこれから社交界とやらで散々に揉まれまくってもしかしたら今より辛い思いをするかも知れない。それでも。

「俺はまぁ、死ぬまで此処にいるだろうからよ、いつか貴族のオメェが慈善事業にでも来てくれんのを待ってるぜ」

「…………はは、じゃあさ」

俺は冗談のつもりだった。貴族の仲間入りをしたら俺みたいなチンピラは道端の石ころ同然、見向きもされない存在となるだろう。それなのにナマエは楽しそうに笑った。その目には本気の色が見え隠れしていた。

「いつか僕が全てを手に入れたらさ、アンタを僕の従者にしてやるよ」

その目に宿る色にどうにもゾワゾワとした鳥肌が抑えられなかった。餓鬼の癖になんて目をするのだろうと。俺はどんな修羅場だって潜って来た筈なのに、さり気なくナマエから目を逸らしてしまった。

「っは、は。ふざけんなって。……俺は、外国語なんて喋れねェよ」

「今から練習しとくんだな。そう、だな。……ドイツ語、とかお勧めな気がする」

「なんだよ、それ」

笑い合ったあの日の事を今でも良く覚えている。あの頃は若くて判別出来なかったナマエの目に宿ったあの色に、今なら名前を付けられる。あれは途方も無い野心と憎悪だ。何もかもを手に入れて、憎らしい奴全員を陥れたいという顔だった。その事にあの日の私が気付けていたのなら、五十年に渡るこの因縁は始まる事無く全てが幸せだったのだろうか。

全てはあの日から始まっていたのだ。若かった私には気付けなかったけれど。