或る殉教者の独白

ヨレンタさんと知り合って、どうやらピャスト伯、という人の所に行けば今自分が関わっている途方も無い説に関して何かが分かるのだと知った。バデーニさんは見るからに苛ついているし(ピャスト伯というのは地動説、とは真逆の説を信じているそうだ)、ヨレンタさんもどこか申し訳なさそうな顔をしている。

「あ、あの、ピャスト様に会うには、もう一人、会っていただかないといけない人がいて、」

「もう一人?ピャスト伯だけでも説得出来るか分からないのに、まだいるのですか?」

ヨレンタさんに怒ったって仕方ないのに、バデーニさんは苛々した声を出すから可哀想にヨレンタさんは萎縮してしまっている。でも俺に出来る事は何も無くて、おろおろと二人の顔を見比べるしか出来ない。

「え、ええっと、ナマエ、様という方で、こう、何というか、ピャスト様の秘書というか右腕というか、と、とにかく、ピャスト様に会うにはナマエ様からの取り次ぎが必要なんです」

「…………ナマエ?」

それでもヨレンタさんの言葉にバデーニさんがぴくり、と反応した事をきっかけに、何故か彼は考えを変えたようでその、ナマエ様とやらの所に俺たちは赴く事となったのだ。

「ナマエ様、あの、お話ししていた方達です」

ピャスト伯の学問所の中でも、ここはきっと一番か二番目に大きな部屋だろう。ヨレンタさんが開けたドアの向こうから見切れているだけでも見上げるくらいの書棚に隙間無く本が詰め込まれている。この本を、そのナマエ様は全部読んでいるのだろうか、なんてどうでも良い疑問が頭を過った。

「取り次ぎありがとう、ヨレンタ嬢。そう言えば、先日の研究の件で話したい事があるから、後で時間をくれないか?コルベ氏にも伝えているからもしかしたら彼からもう聞いているかも知れないけれど」

「あ……!わ、分かりました!ありがとうございます!」

とても深くて、何というか甘い、声に聞こえた。初めて思った。「ずっと聞いていたい声」ってこういう声だと。張りのある声は良く通っていて、俺は見た事が無いが歌劇を生業にする人間のような磨かれた声のような気がした。

「どうぞ」

ヨレンタさんに誘われるのを食い気味に無遠慮に扉を潜るバデーニさんを俺も慌てて追い掛ける。「その人」と対峙して分かった。声だけじゃない。この人は生まれながらに「選ばれた人」なのだと。

学術組織に属していてピャスト伯の秘書で、と聞いていたので一体どんな「曲者」だろうと思っていた。バデーニさんに聞く限り学術の世界も色々あるようだから。そんな中で、有名な学者の秘書と来たら相当厄介な人間なのだろうなと。でも、その人は俺の想像とは全く違っていた。

真っ先に目に入ったのはその、力強く輝く不可思議な色の瞳だった。様々な色を混ぜ合わせたような複雑な色の瞳が真っ直ぐに、言い様によっては切り裂くように、俺たちを見ていた。

その瞳に圧倒されるように視線を逸らした事で俺はこの人の全体像を目に映した。バデーニさんとは似ているようで少し違う金色の長い髪を無造作に纏めているが、その髪は良く手入れされているだろうと見ただけで分かった。男なのに何処となく女のような色気が見え隠れしていて不思議な人だと思った。そしてその優しそうな顔付きとは裏腹に、彼が俺たちに見せる顔は何処か硬かった。

「それで、ヨレンタ嬢の紹介で来られたとか。ご存知だとは思うがピャスト様は忙しいお方です。一体何の用向きでしょう」

俺たちに椅子を勧めてから、ナマエ様は単刀直入に切り出した。声音もさっきのヨレンタさんへの物とは随分違う。明らかに、警戒されている。

「勿論ピャスト伯にお会いしたいというのはありますが。私は今日、あなたにお会いしたいと思ってここに来ました」

「……ええっ!?そうなんですか!」

予想もしなかったバデーニさんの回答につい声が出てしまう。バデーニさんは呆れたように肩を竦める。

「……オクジーくん、少し黙っていてくれないか。天文に関わる者で彼を、ナマエさんを知らない人間などいやしない」

ナマエ様は静かにバデーニさんを見つめている。その目には何の感情も見当たらない。それよりも、目の前のナマエ様はそんなに有名な人だったのか。

「どなたかと、勘違いしているのでは?私は、ここで己のしたい研究をしているだけの、ただの学者です」

「たった十年であれだけの成果を上げたのに?」

話がまるで見えて来ない。何も分かっていない俺に気付いたのか、バデーニさんは呆れたようにため息を吐く。それでもナマエ様について説明をしてくれる気のようだ。

「彼は、元々神学研究で名を馳せた学者だ。ところが、十年前、急に、本当に『急に』専門を天文学に変えた。そこから十年でピャスト伯の右腕にまで登り詰めた。この意味が分かるか、オクジーくん?」

「え、ええっと、も、物凄く、優秀な方なんですね……」

「いえいえ、私などまだまだ若輩の身。ピャスト様の求める『完璧な宇宙』の証明も出来ずにおります」

にっこりと綺麗に微笑むナマエ様の顔を、美しいと思った。人間に、況してや男にそういう感情を感じてはいけないと分かっているのに、その人は神様から特別に祝福を受けた人のように見えた。

「さて……、私に会いに来られる方は神学か天文の話をされる事が多い。あなた方は、どちらですか?」

ナマエ様の目がゆっくりとバデーニさんから俺に移る。その目を見ていると、何処か責められているような気持ちになってしまって俺はさり気なく視線を落とした。

「…………その、どちらもだ、と言ったら?」

「……私も若輩の身ながら多忙な生活を送っているもので。あまり長い時間は取れませんが」

ナマエ様がゆっくりと椅子に座る姿勢を直した。とても堂々としていて俺とそう歳も変わらないはずなのに、随分と落ち着いて見えるから、彼の纏っている見た目にはそぐわない不思議な雰囲気に俺はずっと圧倒されていた。

「十年前、」

それなのにバデーニさんはもう、無遠慮に会話を始めるから、この人はいつも遠慮という言葉を知らないなあ、と見ている俺の方がはらはらしてしまう。でもナマエ様はそんな事、気にした様子も無くその視線をバデーニさんの薄い色の瞳に合わせている。あんな力強い瞳で見詰められたら、俺は目が灼けてしまうのではと錯覚する。それくらい空恐ろしい目だった。

「あなたは何故、神学から天文学へと転向したのです?」

「…………」

見定めるようなナマエ様の目が、少しだけ細まるのが見えた。まるで俺たちを睨み付けるような目だ。でもそれはすぐに元通りになる。

「興味が、天文へ移ったからですよ。神学の知識を持った上で天文をする事もまた、非常に興味深い物でした」

「へえ。……てっきり、弟君の跡を継いだのかと」

「…………!」

今度は明確に、ナマエ様の目から敵意が見えた。冷たい、俺が良く見る、殺意の混じった目。それはきっとナマエ様が「触れられたくなかった話題」なのだろう。

「何が、目的ですか?」

にっこりと微笑んでいるナマエ様の声は硬く、俺たちに心を閉ざしているのが明らかだった。彼を怒らせたら、ピャスト伯とやらに会えないのでは、とおろおろするばかりの俺を無視してバデーニさんは続ける。

「私は、かつて中央修道院にいた時に、あなたの六等星についての論文を読みました。はっきり言って感動した。世にこのような学者がいるのかと。そして聞けば、それはあなたが天文を始めてから三年目の論文だとか。全く打ちのめされた思いでした。私とて周囲の人間より優秀である事は自負しているが、だからこそ、あなたに一度会ってみたかった。あなたが何を思い、何に触発されて天文へ『転んだ』のか。だって神学は、」

「…………全ての学問の、頂点、なのに?」

どろりとした、嘲りを含んだ声に伏せていた目を上げた。ナマエ様の顔には怒りと苛立ちが見えた。それは複雑な感情を制御し切れていない、完璧な人間の「綻び」のように見えた。

ナマエ様は答えを考えるように視線を巡らせてから、一瞬窓の外を見た。陽光の良く入る大きな窓の外には、誰も、何もいない。でもきっとナマエ様はそこに何か、或いは「誰か」を見たのだろう。次に彼がゆっくりと視線をこちらに向けた時、俺はその不可思議な色の瞳を、今度は見詰める事が出来たのだから。

「……差し支えなければ訂正を。私が六等星の論文を書いたのは私が『最初に』天文の勉強を始めてから十三年目です」

「……というと?」

「幼い頃、孤児の生まれだった私を世話してくれたのは天文学者でした。私が初めて学んだのは天文です。その方が養父を紹介してくれた事で私は後ろ盾を得て、そして、神学に転向した」

昏い目が俺を、俺たちを見ている。ナマエ様の話は落ち着いた語り口なのに、俺には何故かそれが俺たちを責めているように聞こえた。俺には全く関係の無い遠い人たちの話なのに。バデーニさんが少し身を乗り出したように見えた。何となく、バデーニさんは今、ナマエ様に対する興味だけで動いているような気がした。

「それは、何故?」

「……あなたも、学術の世界にいるのなら分かるのでは?大切なのは『何がやりたいか』ではなく『何をやるべきか』です。生きる上で大切な事は、何かを諦める事だ。私は天文でなくても生きていけた。だから天文を辞めた。なのに」

「弟君の事があった」

「…………あの子は、諦められなかった。そして異端として焼かれた。あなた方のように、地動説なんていう愚かな夢を見て」

ひゅ、と息を吸った音が俺の喉からした。どうして、なんで。心臓がバクバクと音を立てている。バレたら生命の危険だってあるのに。それどころか天国さえ危ういのに。それなのにバデーニさんはとても落ち着いた様子でナマエ様を見返している。

「バデーニ殿、私は、学者として世の中の知について責任を持たねばならないと思っています。だから私を訪ねてくる同志には喜んで手を貸す。だが、」

ナマエ様が小さく疲れたように息を吸って吐いた。ゆっくりと顔を上げて俺たちを見るその目には重苦しい感情がはっきりと見えていた。

「異端は、駄目だ。……それは、周りを不幸にするから」

「周りを」と口にするナマエ様の目が、悲しげに細まった。一体、誰の事を考えているのだろう。

「……周り、ですか」

「そう。弟が焼かれてから、私の人生は変わった。大学で神学の教授をするはずだったのに、どうしてだろう。弟が生命を賭して守ったあの説を、きっと私はどうにかしてしまいたいのでしょうね。肯定したいのか、否定したいのかも分からないまま私は今、ここにいる」

「……あ、あなたにとっては、それは不幸な事なのですか?」

どうしてだろう、口を挟まずにはいられなかった。バデーニさんからは痛い視線を受けるし、ナマエ様からも視線を受けた。でもナマエ様は怒っているようには見えなかった。ただ、悲しんでいるように見えた。

「不幸なのは、私ではない。義父や沢山の教え子、友人。……失ったものは多い。私が『転ばなければ』きっと彼らは辛い思いをせずに済んだ。特に義父には本当に申し訳ない事をした。実の父のようにとても良くしてくれたのに」

困ったように笑ったナマエ様はもう一度、ゆっくりと俺とバデーニさんを見詰めた。あれだけ強いと感じた目の光は今、冬の日差しのような温度をしていた。

「……君たちのしている事は、きっと周りを不幸にする。君たちはそれで良いかも知れないが、遺された人間にとってはたまったものじゃない。深入りしない方が良いと思いますがね」

柔和な顔立ちはそのままなのに、俺にはナマエ様のはっきりとした拒絶が見えた。そこにナマエ様の地動説に対するはっきりとした恨みのような感情が見えて、俺はきっとピャスト伯には会えないのだろうなと思った。こういう目をした人間の意思は、きっとどんな岩より硬いだろうから。

「……それだけですか?」

「うん?」

「いえ、『転んだ』理由はそれだけなのかと」

ぱちり、とナマエ様が目を瞬いた。多分俺も目を瞬いた。何、言ってるんだこの人?と多分俺もナマエ様も思っている。バデーニさんは相変わらずふてぶてしい態度を崩さない。

「何が言いたいのです?」

「私があなたの六等星の論文から受けた印象は、『これを書いたのは純然たる知的好奇心の塊のような学者だ』という事です。異端だの、家族だの、己の地位だのとそんな事を気にするような人間が、あんな物を書ける訳がない」

ナマエ様は何も言わない。薄らと読めない表情でバデーニさんの話を聞いている。

「あれはただ、知りたいと思った人間が、知りたいと思った事を伝えたいと思ったから書いた物だ。地位も名誉も保身も、あの論文には欠片も無かった。だから私は感動した。世の中にこんな学者がまだいるのだという事に安堵すらした。きっと、あの論文を出すには相当苦労をしたのでしょう?」

「…………はは。まあ、若気の至りっていうやつですね。まだピャスト様に拾っていただく前の話でして、後ろ盾の無い私は学界から袋叩きでした。……まあ、そのおかげでピャスト様に拾っていただいた訳ですが」

苦笑いを浮かべるナマエ様は何かを懐かしむように目を細めた。

「だが、無名の頃は気楽な物でしたよ。権力の無い私が何を言っても、軽んじられて取り合って貰えなかった。まるで、今のあなた達みたいにね。……私にとってはそれはそれで良かったのですが」

ナマエ様は一度言葉を切って目を閉じた。ゆっくりと三秒くらい数えた頃だろうか。徐に薄い目蓋が持ち上げられる。空と陸の混ざったような瞳が美しかった。

「あなた達の持っている説が、力を持ったらどうなるんでしょうね。今はまだ、ただの異端として取り合っても貰えないその説が、私のような発言力を携えたら」

「…………きっと、世界、いいや宇宙全体が変わってしまうでしょうね」

「そう、か。この十年は長かった。私は十年前のあの日、あなたたちに鍵を渡すために『転んだ』のだろうか」

ナマエ様の問い掛けにバデーニさんは答えなかった。俺も何も言えなかった。ナマエ様も答えを待っていた訳ではないのだろう。肩を竦めると綺麗な所作で立ち上がった。

「ピャスト様の所に案内します。見た所、あなた達には遺す者もいなさそうだ。……でも案内するだけです。私如き説得出来ても、ピャスト様を説得出来ないのであれば所詮その程度の説だったという事ですから」

外で待っていてくれたのだろうヨレンタさんが窺うように部屋から出て来た俺たちの顔を見る。彼女の表情を見たナマエ様がため息を吐いた。どうしてだろう、そのため息が、愉悦のそれに聞こえた。

「……ああ、ヨレンタ嬢もお仲間か」

困ったような声は何処か芝居がかっていて他人事に聞こえた。そして俺がその意味を知るのは、もう少し先の事だった。