それは叶わない夢

幼い頃から、周囲と自分はどこか「違う」のだと知っていた。伸びる背丈の限界も声音の高さも力も体力も何もかも。そしてその先に知ったのは、この世には二種類の人間がいて、私と彼らは違うのだという事だった。

私の父は武の名門みょうじ家の長男として生まれ、自身も家の名に恥じぬ戦働きをして武功を立てた正に音に聞く軍人そのものだった。

西南の役や台湾出兵など数々の戦で勝利を得て下士官たちには慕われ上官の信頼は厚い。良家の娘を妻に娶りこの世の何もかもを手に入れた、正にそう形容するのが相応しかった。ただ一つの事象を除いては。

それは後継ぎの事であった。

軍人の子は軍人であるべきという家の教えに父は縛られていた。何より父の代でみょうじの家を途切れさす訳にはいかぬという重責もあったのだろう。父は仕切りに子を欲した。

私が生まれるより先に母は幾度か身篭った事もあったそうだが、皆生きて生まれては来なかった。

周囲の者の中には父に妾を勧める声もあったようだが、それを許さなかったのは父でありみょうじの家だった。何の事はない、母はその身に流れる尊い血によって父と妻されたのだ。

母にとっては長く辛い時代を経てそして漸く父に待望の第一子が生まれた。それが私である。なまえと名付けられたその子供は健やかに育った。その身に重大な秘密を抱えて。

私の名はみょうじなまえ。徳川の世から続く武勇に名高いみょうじ家の血を引く唯一の「少女」である。

***

幼い頃から私の周りにあったのは人形や針や華やかな着物ではなく、剣や傷だらけで硬い手だった。これ以上の子を望めぬと判断した父は私を「男として」育てる事としたのだ。

針の代わりに竹刀を持たせ、物心つくよりも先に稽古を始めた私を、何も知らない周囲は褒めそやしたらしい。さすが「あの」みょうじの子だと。そして父も私にみょうじの跡取りである事を求めた。

物心つく頃には大体理解していた。私はもう、女としては生きていけぬと。男として生まれ男として生き、そして死ぬ。それは抵抗する術を持たない子供だった私には酷く当然の事として受け入れられたのだった。

父は私の秘密を守るため、私を学校には通わせなかった。その代わりに自ら私に父の持つあらゆる知識を与えようとした。武術に始まり兵術、書、茶、華など実技から教養までそれは多岐に渡った。しかし私も元来知識を吸収するのを好む性質だったせいか、父に与えられるまま私は知識を身に付けていった。

私には友人が一人いた。帝国海軍少将鯉登平二がご子息鯉登音之進。私たちはある意味で同じ境遇だった。互いに優秀な父親を持ち、家の敷いたレヱルを歩いている。私たちは根本では「違っていた」のに、すぐに打ち解けたのはそういうところもあったのだろう。

「音之進はやはり海軍兵学校を受験するのか?」

「……分からない。だが私の意思とにかかわらず周りは私の道を決めようとするだろう」

誰も来ない二人だけの秘密の草原に寝転んで、私たちは誰にも知られてはならない感情を吐露し合う。音之進の兄を喪った後の父との蟠りを私は頷きながら聞いていた。私は私の秘密を吐露する事など能わないので音之進に話を合わせている事が多かった。

「なまえはどうなのだ?やはり御父君に倣い陸士を受験するのか?」

「うん……そうだろうな。結局私たちは望もうと望まざると父たちと同じ道を辿る事になるのだな」

「なまえは、良いな。私はなまえが羨ましい」

「どういう事だ?」

「皆が噂している。みょうじ家の優秀な御曹司と、鯉登家の落ちこぼれが並び歩いていると。私が悪いのは分かっているのに、私はお前を羨んでしまう」

空を見上げて遠い目をする音之進を隣に私は言葉にしてはならない感情を打ち消す。それは私だけのものでは、もうなくなっていたのだから。

(私が女だと知ったら、音之進は)

幻滅するだろうか、それとも。

考える事が恐ろしくて私は思考を止める。それから頭に浮かんだ考えを振り払うようにそっと、音之進の硬い手に自らの手を乗せた。

「なまえ……?」

「私は知っている。音之進が誰にも知られずに一人剣術の稽古に励んでいる事も、兵術の書を読んでいる事も、亡き兄君に並び立とうと必死に努力している事も」

「なまえ……」

「音之進は私の一番の友人だ。そんな友人が必死に己を錬磨している事を、私は誇りに思うよ」

音之進の手をぎゅうと握る。並んで寝転ぶ草原は風が吹く度に草の青い匂いがする。それを肺一杯に吸い込んで音之進に向けて微笑めば、彼は何故か顔を真っ赤にさせて顔を逸らした。

「っ、お、お前も私の一番の友人だ、なまえ。他の誰が信じられなくても、お前だけは信頼出来る」

音之進から与えられる無条件の信頼が本当は怖かった。私の秘密が彼に知られてしまったらと考えたならば。それでも悪い私は束の間その恐怖を忘れて微睡みのような時間を選んでしまう。

青い空の下、二人で手を取り合って寝転ぶ草原はまるで私たち二人だけの世界になってしまったかのようで私はその時間が永続すれば良いのになんて、叶わない夢を見た。

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