鶴見中尉に、呼び出された。億劫だという気持ちを押し込めて彼の執務室を訪う。新しい任務だろうか?今は軍務に集中できる気がしなかった。
「陸軍少尉、みょうじ。参りました」
扉の向こうですぐに入室の許可が出される。ゆっくりと扉を押し開けると当然の事ながら鶴見中尉がいた。
「お呼びでしょうか」
「ああ」
「………………?」
中尉は私の言葉に頷いたきり言葉を発さない。訝しんで、伏せていた目を上げた。彼は、私をじっと見ていた。
「あ、の。中尉……?」
視線が痛くて及び腰になりそうなのを叱咤しながら、私は彼の視線を迎え撃つ。こんな事したって、意味なんて無いのに。
「みょうじ少尉」
「はい」
「いいや、なまえさん、と呼んだ方が宜しいかな?年頃の令嬢なのだから」
「……っ!!」
びくり、と肩が震えた気がした。頭に急激に血が行って、また下がった気がした。耳の奥で心臓が鳴っている。
「な、んの事でしょうか?」
目に力を入れて中尉の目を見つめる。絶対に逸らしてはいけないと思った。それなのに、中尉の視線の方が遥かに強くて、私はもう耐えられなかった。
「みょうじなまえ。今までよく周囲を騙したものだ。まさか文武に秀でたみょうじ家の秘蔵っ子が女子とは……」
「っ、」
ああ、もう完全に露見しているのだと気付いた。鎌をかける程の事ではなく、中尉は確信しているのだと、彼の声音で理解した。
「…………私を、どうするお積もりですか」
性別を偽るという罪が、軍にあるのかはよく分からなかった。だがどんな罰でも私は甘んじて受け入れるだろうと思った。生きるのに疲れてしまったから。もしこれから死ぬより辛い罰を受けるのなら、その前に死ぬことさえ考えていた。
中尉の瞳を見つめる。深淵を見た気がして、背筋が粟立った。中尉は上品な顔立ちを笑みの形に歪める。立ち上がった彼は一足に私との距離を詰める。
「っ、」
「みょうじ少尉、髪を伸ばせ」
「…………、は?」
ぱちり、と目を瞬かせた私を責める者はいないだろう。鶴見中尉が何を言っているのか、よく理解できなかった。
「髪を、伸ばす?」
「そうだ。常々思っていた。いずれ君には私の仕事を任せたい。『君にしか』出来ぬ仕事だ。そのためには男女両方の顔を君が使い分ける必要がある」
何を言われているのか、余り理解は及ばなかったが、兎に角中尉が私の偽りについて追及する気は無いようで安堵する。中尉はそっと私の手を両手で奪う。革手袋越しには彼の熱は伝わらない。
「今まで、辛かったろう」
「…………っ」
低く囁かれた言葉が確かに感情を揺さぶった。辛かった。そうだ、私は辛かった。女である事を否定されて、親の言うままに決められた道を歩んでいた。したい事もしたくない事も全て私の思うままにはならなかった。それでも喰らいつこうと鍛錬を積んだ。私はみょうじ家の跡取りなのだと、思っていたのに。
「男子として育てられ、女としての幸せを捨てる覚悟をしたのだろう?それなのに、君の父君は、君を裏切った」
「っ、……!」
裏切った?父が、私を?……嗚呼、そういえば、昨日母の懐妊を知ったんだ。生まれる子が男児なら、私はもう要らないのだと父は言った。でもそれは。それは、私の。
「っ、私の、何がいけなかったのですか?」
鶴見中尉の憐れむような視線が恐ろしい。私は本当に用済みになってしまったのだと告げるようで。肯定して欲しかった。私がみょうじなまえの役目を全うした事を。私が至らなかった事は何一つ無いのだと。
「…………まさか。君に落ち度など何ひとつ無い。君は誰より勇ましい帝国軍人で、誰より美しい女性だ」
ぎゅう、と心臓を握られた気がした。痛いくらいに縮んだそこから、何かとてもふわふわとした暖かい物が送られて行く気がした。例えるならそれはきっと、暗闇の中に差し込む一筋の光を見た時のような。
「……私に、何を望みますか?」
気付いた時には口から言葉が突いて出ていた。鶴見中尉はとても美しく笑った。
「まずは髪を伸ばせ。今すぐに君を女性に戻してやる事はできないが、君の美しい射干玉をこのまま切り揃えておくのは惜しい」
「そのような事を言われたのは、初めてです」
擽ったくて、微笑んだら私の手に触れていた中尉の手が私のこめかみ辺りに添えられ、優しく上下する。
「音之進くんには?」
「…………音之進は、私の事を知りませんから」
苦笑すると中尉は意外そうに眉を跳ねる。しかし思い直したのか、まるで内緒の話をするように私に顔を近付ける。吐息が混ざりそうな距離に心臓が上擦る。
「ではこの秘密を知っている者は他に?」
「…………月島軍曹には露見してしまいました」
「何と。月島め、報告に上がってきていない」
少し大仰なくらいに肩を竦める中尉に、何故か安堵が湧いた。月島軍曹が約束を守ってくれた事に。
「自分がお願いしたのです。中尉には言わないでくれと」
「分かっている。それで、君にはこれから私の直属の配下として暗躍してもらいたい。どうかな?」
どうしてだろう、心は決まっていた。でも少しだけ喉が詰まってしまってすぐに声が出なかった。だから静かに頷いた。目の前の中尉の顔が満足そうに笑みの形を作ったのが、酷く嬉しかった。
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