01

門倉がその女を初めて見たのは、交代の時間だった。怠い身体を引き摺って、面倒な引継ぎを終え、さあこれで漸く宿舎に帰って眠る事が出来ると僅かに安堵めいた感情を抱えていた、そんないつもの日常の一コマを追っている最中だった。

「部長、待ってくださぁい。面会希望者が……」

後ろから最近入った新入りの声が聞こえて、門倉は聞こえない振りをしたくなった。その声の主は何となく、彼に得体の知れないものを感じさせる男で、門倉はあまり好きになれなかった。名前は確か。

「宇佐美……。お前いい加減、面会処理くらい一人で出来るようになれよ……」

「すみませぇん。でもまだボク一人じゃ覚束なくて」

「他の奴はどうしたんだよ」

「皆さん手が離せないそうで……」

つまりお前は俺が暇だって言いたい訳か。

喉まで出かかった言葉を呑み込んで(ここで押し問答しても仕方ない。それに事実門倉は今、暇だ)、門倉は盛大にため息を吐くと後頭部を掻き毟る。曲がりなりにも宇佐美は門倉の部下だ。部下の育成、これも中間管理職の仕事の一つ。

「ったく、ほら、行くぞ」

「はぁい!」

二人して連れ立っていく道すがら、他愛も無い話を宇佐美とした気がするが、門倉はその内容を覚えてはいなかった。正直眠かったし、面会処理なんて面倒な仕事、門倉はあまり好きではなかった。面会処理は看守の仕事の中でも雑事が多く、一見すると簡単そうに見えて複雑なのだ。新人殺しと言ってもいい。面会希望者に書かせる書類の作成、面会の立ち合い、それから彼らが話した内容の調書の作成などとても夜勤明けにしたい仕事ではない。隣で鼻歌でも歌いそうなくらいに上機嫌の宇佐美に聞こえないようにため息を何度か吐いて、門倉は面会人待合室へと向かった。

正門前の面会人待合室には確かに一人、座っていた。俯きがちで歳の程は分からなかったが、女である事は門倉にも窺えた。しかしその着物の妙に艶やかな事が門倉には少し違和感であった。門倉の良く見る「囚人の家族」とは隠れるように息をして、世間様に必要以上に頭を下げて歩くような、そのような者たちが多かったからだ。逆に彼女のように世に己ありと主張するような者は、罪程犯していないにせよ、概ね囚人と「類友」である事が多かった。

(こりゃ、思ったより厄介かもな……)

貧乏くじの文字が門倉の脳裏を過ぎる。今更なのだが。

「お待たせしましたぁ!センパイを呼んで来たので、何でも聞いてくださぁい!」

やけに張り切った様子の宇佐美の身も蓋も無い言葉に、頭が痛くなるのを我慢しながら、門倉は宇佐美に続いて待合室に入る。ふわ、と香った白檀の匂いは上品で主張し過ぎず、門倉は少しだけ気後れした。「艶やかな着物に確りと香を焚き染める女」に。

「……ありがとうございます」

顔を上げて、僅かに微笑んで見せたのは少女だった。年頃は出て行った門倉の娘よりも少しばかり上だろうか。それでもその表情に、少女らしさは微塵も見られなかった。微笑みの中にも抜け目ない光が目の奥に渦巻いて、隙あらばこちらを取って喰らわんとするような、そんな容赦ない色が見て取れた。これは後者の「家族」であったなと門倉は僅かな緊張感に目を細めた。一方の宇佐美は、何も気付かないのかにこにこと笑っていた。

「それで?お嬢さんが面会希望の囚人は?」

「……みょうじです」

「みょうじ?……ああ、最近入ってきたあいつか。書類を作らなきゃならんから、ここにお嬢さんの名前と、みょうじとの関係性を書いてくれ」

とんとんと机の上の書類を人差し指で叩き、門倉が鉛筆を渡してやると、少女は白い手でそれを受け取りさらさらと言われた通りに書類を埋めていく。綺麗な読み易い字だった。

(みょうじなまえ……。関係は、娘、か)

門倉はみょうじという男の事を思い出す。少女の前ではあまり印象にない風に振る舞ったが、門倉はみょうじという囚人に嫌と言う程悪印象があった。それはみょうじが収監される時だった。彼は看守を振り切って逃げようとして、あろうことか門倉の顔面に一発喰らわしているのだ。

(……あの一発は中々効いたぜ)

そもそも看守とは凶悪な犯罪者を相手にする仕事だ。だからある程度の荒事には慣れているとはいえ、流石に「極道」のそれは効いた。そう、みょうじは極道の親分だった。それも幾人もの若い衆を引き連れる最近勢力を伸ばして来ている組の。世間の情勢に疎い門倉でさえ聞いた事があるのだから、その間の轟き様は察するに余りある。そのみょうじにまさか娘がいたとは。

「あの……」

不意に小さな声が転がるように部屋に満ちた。ふと、門倉が少女を見れば、彼女は少し困ったように彼を見上げていた。その時門倉は、ふと彼女の目の色に違和感を持った。しかしその違和感を確かな物にする前に彼女はまた、俯いてしまったから、掴み損ねたそれは立ちどころに消えてしまったのだが。

「書けました。これで良いですか?」

す、と書類を押し戻されて、門倉はそれに目を通す。それから一つ頷くと、傍らにいた宇佐美にその書類を渡した。

「宇佐美、お前これ処理しといてくれ。面会の立ち合いは俺がやるわ」

「え、良いんですかあ?そう言えば部長、これからお休みだったんじゃあ」

「ああ、良いよ。こうなりゃ乗り掛かった船だ」

今更かよ、という思いは無きにしも非ずだが、門倉は緩く手を振って、宇佐美を追い立てる。それからなまえを振り返ってついて来るように指示をする。なまえはゆっくりと立ち上がってそれからふらついた。咄嗟に門倉は彼女の手を取ってやる。それは白くて、予想通り柔らかな手だった。

「おっと」

「……すみません。足が悪いので」

男に手を取られたのに、別段恥じ入る様子も無く淡々としている様子のなまえに、門倉は肩を竦めてから改めて彼女の先を歩く。それでもいつもよりゆっくり歩いたのは、彼なりの気遣いだった。

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