初めて彼女と言葉を交わした日から、俺は彼女を見かける度、時折声を掛けた。彼女の方も俺を認めた時は俺に声を掛けてきたから恐らく彼女も俺という存在を認知したのだろう。最初はただ、彼女の方から声を掛けてきたからそれに答えているだけだったが、それが、そう間を置かず双方向の会話になるとは俺自身思ってもみなかった。それでも、閉塞感しかない息苦しいこの村で、彼女は、なまえは唯一俺に含みの無いただの笑顔を見せる奴だった。それはきっと、なまえにとっての俺も同じだったのだろう。すれ違う時のただの挨拶が、次第に他愛の無い僅かな立ち話の時間に変わるのに時間はかからなかった。そして、大半は他愛も無い挨拶程度だったそれを俺は存外気に入っていた。なまえもそうだったのなら、と俺は今まで他者に感じた事のない感情を抱いていた。すなわち期待という感情を。
「あ、百之助」
家に居辛くて(祖母は何も言ってこないが恐らく気付いていたのだろう。俺のした事について。そのせいで俺は居ないものとして扱われていた)、仕方無しに俺の「お気に入りの場所」にでも行こうかと、一人ぶらついていた時だった。なまえの家の近くを通りかかった。
彼女は相変わらずよく動いてよく働いていた。何もしていない俺の肩身が狭くなるくらいに、なまえには働き者という賛辞がぴったりだった。
「よう、相変わらず忙しそうだな」
「まあね。でも、今日はこの洗濯が終わったら夕方迄何も無いんだ」
そう言い終わる間にもてきぱきと義姉妹たちの着物を干してしまうなまえにまた、期待が湧いた。もしかしたら、なまえは俺と同じなのではないかと。
「なあ、なまえ」
「うん?何?」
洗濯籠を片付けるのに忙しくて生返事のなまえに僅かに心臓が高鳴る。もしかしたら、俺は初めて誰かと何かを共有する事が出来るのではないかと。
「お前、秘密、守れるか?」
「秘密?何の?」
「今から俺の秘密の場所に連れて行ってやるよ。だけど誰にも言うなよ」
「秘密」という言葉に興味を擽られたのかなまえは大きな目をきらりと輝かせた。こくこくと頷いて「秘密、守るよ。私こういうの初めて」と言った彼女の鼓動が俺と同じように高鳴っている気がして、矢張り俺と彼女は限りなく近い別個体なのではないかと思った。
迷わないようにと適当な言い訳を作って、何となく繋ぎ合った手を気恥ずかしく思いながら、俺はなまえを「そこ」に連れて行く。「そこ」は俺が見つけて以来、少なくとも俺がいる間は誰にも荒らされた事の無い場所だった。村の外れの川のほとりに僅かに隠れるような空間があるのだ。まだ荒らされた事のないような濁り無い水のせせらぎが、俺の秘密基地であり、唯一の安息の場所だった。
「どこにあるの?」
「この先。約束だからな?誰にも、」
「分かってるよ。誰にも言わないってば」
道中何度も繰り返した言葉の応酬を、俺も別になまえの事を信じていない訳ではないが
つい繰り返してしまう。そして、遂に「そこ」に辿り着く。辿り着いてから今更、秘密基地なんて餓鬼っぽかったかな、とかなまえが期待外れに思ったらどうしようとか、嫌な想像が頭を過ぎったけれど、それはどうやら杞憂だったようだ。なぜなら。
「わあ……!百之助、凄いね!こんな素敵な場所、どうやって見つけたの?」
見た事の無いくらいに瞳を輝かせ、きょろきょろと物珍しそうに辺りを見渡すなまえがいたからだ。見るもの全て、初めて見るんじゃないかというくらいに、物珍しそうに眺め、恐る恐る触れる彼女を見ていたら、俺の予感は当たっていたのだと、答え合わせが終わった。そして気付いた。なまえは、なまえだけはこの村の中で唯一、信頼しても良いのではないかと。
「なあ、ここ、お前も来て良いよ」
「えっ、いいの!だってここは百之助の秘密基地なんじゃ、」
「良いんだよ。今日からここは俺とお前の秘密基地だよ」
繋いだままだったなまえの手をぎゅう、と握る。伝われよ、俺の感情全部、この繋がった手からありったけ。初めて誰かと分かち合った秘密を、俺がどんな風に思っているか、とても言葉には出来ないんだ。
何も言わず、ただなまえの顔を見詰めるしか出来ない俺になまえは笑った。笑って、強く強く俺に握り締められた手で、俺の手を握り返してくれた。
「……私ね、初めてだよ。誰かに秘密を教えてもらったのも、秘密を分け合うのも」
ありがとう、百之助
その言葉に俺は「…………、俺も」と小さな声で言うのが精一杯で、この時ばかりは素直になれない俺自身を悔やんだ。それでもなまえは笑ってくれたけれど。
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