ナマエを初めて見たのは酷く暗くて寒い夜のことだった。遠くから犬たちを駆る声が聞こえて俺たちの村にやって来たのはいつもの行商人だった。彼は逞しい男でかつては王宮の近衛兵だったとかどうとか大人たちが噂しているのを聞いたことがある。俺はそんな噂を信じる気にはなれなかった(恵まれた体格を持ち、能力もある者であれば近衛兵を辞するなど考えられないというのが俺の持論だ)が、貧しい村にはない目に鮮やかなあれこれを見せてくれる彼の訪れは素直に待ち遠しかった。
「ひと月ぶりだな、坊主」
犬ぞりから降りて荷物を下ろしていた行商人の男に近付けば、彼は俺に気付いたのか精悍な顔に笑みを浮かべて俺を見た。俺も僅かに笑みを浮かべて男に更に近付く。彼は俺のことを坊主と呼んだ。同年代の誰より背も高い俺だったが、彼の背はそれ以上に高く俺はいつもその顔を見上げるばかりだった。彼の挨拶に会釈を返して俺も男を手伝おうとそりに近付こうとしてふと、気付いた。まだほとんど荷物も解かない犬ぞりに誰か、いた。
「こ、こんにちは……!」
耳が壊れたのかと思った。或いは身体の頂点から足先に雷のような衝撃が抜けていったようなそんなありもしない想像が俺の頭の中を右から左に駆け抜けていった。そこにいたのは少女だった。俺と同じくらいの年の頃だろうか。高過ぎず低過ぎない耳に心地良い声が妙に俺の印象に残った。防寒着を着込んでなお、外気に晒され続けたのだろう頬と鼻が赤みを帯びていて少し痛々しくて、俺は咄嗟に家に帰って少女の為に湯を汲んで来てやりたくなった。勿論俺の内心など知りもしないだろう少女は犬ぞりから降りて怖々と俺の前に立つと「父がいつもお世話になっています……」と小さく呟く。今、彼女は何と言った。
「父……?」
「ああ、こいつは俺の娘だ。今回の行商から同行させてる。いずれは俺の後を継いでもらうことになるだろうから、まあよろしくしてやってくれ」
「……似ていない」
「母親似なんだよ!こいつの母親はそれはもう美人で……」
「お父さん……」
俺がうっかりと口にしたその言葉に大袈裟に食いついた男と、苦笑する少女は確かに似ていなかった。だが笑った時の二人の雰囲気がそっくりで俺の言葉は間違いであったと俺は心の中で俺自身の言葉を訂正した。一頻り妻の自慢をした男は(申し訳ないが聞いていなかった)満足そうに娘の頭を撫でてから、冗談めかしたように「惚れるなよ?」と言う。惚れる、その言葉に心臓が急に高く鳴った気がして俺は普通にしていることができなくて「はい」とも「いいえ」とも言えず曖昧に俯いた。それは少女も同じだったらしい。冷えて赤くなった頬を別の意味で赤らめて俯く。その柔らかな灰色の瞳が見えなくなってしまうことが少し残念だった。
「俺、ヴァシリ……」
何かを残念だと思うことなどほとんど無かった。だからこそ逃したくなかった。左手を服の裾で拭って手を差し出す。少女は弾かれたように顔を上げて、あわあわと狼狽えながら俺の手を握った。それは冷たかったけれど、柔らかな手だった。
「私、ナマエです……。よ、よろしく」
おずおずと少女の、ナマエの口角が持ち上がって笑みめいた表情が作られる。外気に晒されたせいか硬く強張ってはいたが確かな笑顔に何とも言えない感情が浮かび上がって消えた。例えるならば夕方遅くに漸く命じられた薪割りが終わって暖かな室内に入る時のような、そんな感情。
「ほら、ナマエ。坊主との挨拶も済んだならこっち手伝え」
「あ、はい。じゃあ、後でね、ヴァシリ」
突然名前を呼ばれたことに驚いて肩を揺らした隙にぱっと離された俺の手だったけれど、その手の内にはずっとナマエの温もりが残っている気がして俺はぼんやりと左手を見つめた。先ほどの感触を思い出そうとして俺の右手を左手で握ってみたけれど、それはただ硬いだけの俺の手でナマエの手の感触とは似ても似つかなかった。
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