それから幾許の時が流れただろう。私も音様もただひたすらにお互いの温もりに触れた。それは決して情交ではなく、ただ、互いの長い時を埋め合わせるかのようなそれだった。音様の硬い手は私の旋毛から足の爪先まで余す事無く触れ、私も音様の存在の輪郭をそっと辿った。
「なまえ。好きだ、なまえ。愛しているのだ、他の誰でもない、お前を」
「音様……。嬉しいです。私も、音様の事が好きです……、音様はずっとずっと私の救い主だったわ」
「なまえ……」
情事とは程遠いまるで微睡みか何かのような甘やかな時間がただひたすらに愛おしくて、私は未だにこれが夢なのではないかと疑ってしまう。こんなに幸せだと、感じた事が無いのだ。「普通の娘」だった時ですら、こんなに満たされた想いであった事は無かったように思う。そう考えると、ひとりでに顔が緩んでしまって仕方が無いのだ。
「……何を笑っているのだ?」
低くて甘い囁きが戯れのように耳許を通り過ぎる。その吐息が擽ったくて今度は声を上げて笑えば、音様も楽しそうに私の耳を甘噛みした。
「教えてくれ。なまえの事なら何でも知りたい」
「……でも、恥ずかしいわ」
「もっと恥ずかしい事を、もうしただろう?」
悪戯っぽく笑う音様に心臓が握られたように痛む。幸せ過ぎて、怖いくらいだ。
「もう、音様ったら。……あのね、幸せなの。音様が今、この時だけでも私の事を見てくださって、私を愛していると言ってくれた事が」
目蓋を静かに下ろして、音様の厚い胸板に頬を寄せる。音様は私の髪をゆっくりと梳きながら、優しく目を細めた。
「今だけ、ではない。これからも、だ」
「……でも、それは……」
私が言葉に詰まるのは、当然の事であった。音様は優秀な軍人だ。立派な御家があって、御家の格に見合った良家の娘を娶り、そして子を成さなければならない。それがある意味音様に課せられた宿命とも言えた。その中に私という異物は、あるべきではない。たかが商売女は良くて、妾として一番美しい時期を提供できれば御の字。音様の心を疑う訳では無かったけれど、やはり人の心は移ろいやすいというのは私たちの世界では常識であった。
私のそんな思いを音様は敏感に感じ取ってくださったのだろう、彼はふ、と仕方のなさそうな顔で笑った。それは手の掛かる子を、それでも愛おしげに見つめる親のようで、私は何故かその時に喪ってしまってもう顔も思い出せない家族を思い浮かべた。
「私はな、なまえ。お前に感謝しているんだ」
「……え?」
唐突な言葉に首を傾げる私に音様は構わず続ける。
「お前は初めて出会った時、死のうとしていただろう?私も、同じだった。兄を喪い、父に見捨てられたと思った私は自分の意義を見失って、あの時、死に場所を探していたのだ」
初めて聞く話に私は言葉が継げない。音様は私の頭を一撫ですると「あの時」を思い返すように少し遠くを見つめた。
「そんな時、お前を見つけた。青白い顔で、死のうとしているお前を見たらどうしてだろうな。『繋ぎ止めたい』、そう思っている自分がいたのだ」
「音様、」
「この少女を、なまえを、何としてでもこの世に留め置かねばならぬと、天啓めいた物を感じた。きっとあれを、初恋と言うのだ」
照れたように笑う音様は私の顔を覗き込むと額合わせに私の目を覗き込んだ。
「だからな、なまえ。命の恩人で、初恋の人で、愛おしい人を、みすみす手放すものか。私はお前を、その、身請けしたいと思っているのだから」
時間が止まったような、そんな衝撃だった。それは商売女にとってはある意味で最大の幸福とも呼べる出来事だ。そしてそれが愛している方なら尚更。
「身請け、って、そう、おっしゃったの……?」
「ああ。お前を救いたい。いや、これは建前だ。勿論本音でもあるが……。ともかく、どこの誰とも知れない男に、なまえが夜毎……そう思うと、私がおかしくなりそうだから。ぁ、勿論、なまえが嫌だというなら……っ!?」
気付いた時には音様に思い切り抱き着いていた。驚いて眉尻を下げる音様はぎこちない手付きで私の背を撫で擦る。
「嬉しい……!私凄く嬉しいです……!音様がそうやって私の事を考えてくださって、私のためにそうやって……!」
言いたい事が頭の中でぐちゃぐちゃになってしまって私の言葉はかなり聞き苦しかっただろう。それでも音様はその言葉一つ一つに優しく頷いてくれて、その優しさに私はまた、涙が零れて仕方がなかった。
「もう泣くな。なまえに泣かれると、私の心が痛くなってしまう」
「ええ……、泣き止みたいの、音様にはいつも笑顔を見て貰いたいのに……。でも涙が止まらないの、幸せで。幸せ過ぎて……」
「なまえ……」
そっと近付く音様の唇が、私の頬の雫を啄んでいく。お返しとばかりに、その少し乾燥した唇に私の物を重ねれば、音様は少し驚いたように一瞬肩を揺らしたけれど、すぐに悪戯っぽく笑って私を組み敷くと深く深く口付けをしてくれた。音様の吐息と私のそれが混ざり合って、私たちの身体はまるで、境界線が無くなってしまったかのようだった。本当に、そうなったら良いのに、と頭のどこかでそう、考えていた。
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