希う

私は結核、だそうだ。ここのところずっと調子が思わしくなかったのも、全てそのせいだったのかとようやっと合点がいった。何もかもが、遅過ぎるけれど。

何処か、他人事だった。周囲ばかり大騒ぎしていて、渦中の私はと言えば何故か動揺らしい動揺もなかった。

音様の顔が、浮かんで消えた。どうやって言い訳しよう。そればかり、頭の中で巡っていた。もう二度と、逢えない事など分かっていたのに。

あれよあれよという間に、私の放逐が決まり、私は身の回りの物も殆ど纏めず店を追い出された。当然と言えば、当然である。結核は、移る病だ。そして、罹れば最後私のような貧しい人間は長く患った後高い確率で死んでしまう。

そんな金食い虫を楼主が店に置いておくとも思えなかった。投げ込み寺に放られなかっただけ、マシと思うべきなのだろう。少なくとも、死に場所くらい自分で選べるのだから。

放逐が決まった時、否、もっと前。患いの事実を突き付けられた時から、私は死ぬ事を決めていた。音様にはもう逢えない。ただでさえ音様のような方が商売女を身請けするのは前途多難だ。ましてやそれが病気持ちの女なら。私だって願い下げだ。

……音様が、そんな事で私を見棄てないと知っている。だから私が私を見棄てないと駄目なのだ。この身が音様の枷にならぬよう。

死に場所は、もう決まっていた。音様と初めて会った場所。

ここで私の生が始まったのだから、ここで終わらせるのが妥当だと思った。

「あの時」と同じように、なけなしの金で一番切れ味の鋭そうな刃物を買った。店のガラス窓でせめてもの身なりを整えて。

今度は止める人なんていない。私の覚悟には似つかわしくない爽やかな風が、頬を撫ぜていく。世界は美しい。美しいから、残酷だ。

確実にいけるのは首だと、もう分かっている筈なのに。それでも臆病な私は手首を選んでしまう。でももうどうでも良かった。これで死ねても死ねなくても、もう二度と。私が音様の傍に在る事は叶わないのだから。

「……っ」

滑らせた刃は思ったよりも深く、私の皮膚を裂き肉を抉った。滴る血は「あの日」よりずっと多くて。ああ、これなら死ねるかも、なんて。少し感傷に浸る。

ぽたり、ぽたりと音を立てるように滴る赤い滴を見ていたら、急激に眠くなってきて、お迎えは早いのねと私は逆らう事なく意識を手放した。

音様に頂いた銀簪を、店に置いてきてしまった事だけが心残りだった。

***

不意に意識が浮上した。本当に、不意に。夢など見なかった。ただ現世に私の名を呼ぶ声を、聞いたのだ。

目を開いても直ぐには状況を理解できなかった。そこにいたのは、「彼」だったから。

「ぇ、あ……だ、旦那、さま……?」

震える唇から紡がれる声は掠れて引き攣れていた。身体中の水分が無くなったような錯覚に落ちる。

私の乾いた声に、「彼」はとても甲斐甲斐しく私の口内に水を含ませた。店での「彼」の所作からは想像も付かない程に優しくて丁寧な動作だった。

喉を潤して、少し状況を把握して、切った手首を見たらとても丁寧に包帯が巻かれていた。手近な木に寄りかけられた身体は当然ながら怠くて怠くて堪らない。そしてまだ包帯に残る血は乾いてはいなかったものの、しかしながらその流出は止まっていて、私は「また」死に損なったのだと気付かされた。

「なまえ……」

名前を呼ばれて顔を上げる。「彼」はとても酷い表情をしていた。まるで「彼」自身が死を選ぶ直前のようにさえ見えた。

「……どうして」

浮かんだのは素朴な疑問であった。所詮女郎屋の妓と客の間柄の私たちの間に、在るものなど何も無いように思えたから。だからこそ、「彼」が項垂れて深く息を吐いた時、その横顔に僅かな安堵が含まれていたから混乱してしまったのだ。まるで私の生を祝福しているかのようで。

感情がぐちゃぐちゃに昂るのが分かった。気まぐれの情けなど、欲しくなかった。「彼」を、見る。

「どうして、わたしを死なせてくださらなかったの……、どうして、いきていても……しかたないのに……」

震える声は聞き苦しくて、頬を伝う涙は冷たくて。顔も身体もぼろぼろだった。結核のせいなのだろうか、上がる息は苦しくて呼吸をする毎に汚い喘鳴がした。

死にたかった。病に負ける前に。せめて綺麗なうちに。音様にもう二度と逢えないのなら。生きていても仕方がない。私の生は文字通り、音様によって成り立っていた。

泣きじゃくる私を「彼」は何も言わず見ていた。見苦しく自分を詰る私の事を、唯見ていた。そして静かにその腕の中に私を抱いた。

「っ!だんな、さま……?なにを……!」

「……死ぬな」

たった一言だったのに。その言葉には何よりも重い感情が込められているような気がして、私は何も言えなくなってしまった。何か言って、取り返しの付かない言葉を投げられるのが怖かった。

「彼」と女郎屋の妓と客以上の間柄になってしまう事が、ひたすらに怖かった。

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