随分と軽くなった身体を腕に抱く。動く事が出来なかった。もう此処には存在しない存在を、未だに俺は此処に引き留めようとしていた。
なまえが手紙を書くと言った時、何故か俺はそれを二つ返事で了承してしまった。誰に宛てた物かなんて分かり切っていたのに。剰えそれを宛主に届けるなんてどうかしている。俺にしてみれば恋敵だ。一人相撲だとは分かっていても。
なまえの手紙を棄ててしまう事も出来たはずなのに、俺にはそれが出来なかった。ただ、なまえがせめて、その想いをあの男に伝えられたら良いと思ったのだ。
俺が手紙を押し付けた時、鯉登少尉は怪訝な顔をしていたが内容を検めるや否や俺に掴みかかる。胸倉を掴まれて、人目の無い所だから良いが誰かに見られたらどうするつもりだ。
「っ、き、さまっ、なまえは何処にっ、」
想定外の衝撃に混乱しているのだろう鯉登少尉に俺は酷く安堵していた。なまえが未だ、彼に愛されていた事がこの上なく嬉しい事のように思われたのだ。
たとえ恫喝されようと、理不尽な暴力を振るわれようと俺は決してなまえの今を口にしなかった。誰も幸せにならない事を今更言っても仕方がない。なまえから固く口止めされているのだと言う俺が絶対に口を割らない事を知ってか、鯉登少尉は酷く取り乱したように顔を歪めた。その顔は憔悴しきっている。半年ほど前から、隊では専らの噂の的だった。その理由を知っているのは、俺だけだ。
鯉登少尉は、酷く痛々しい表情を見せた。それはいつ死んだっておかしくないような何もかもを諦めた顔だった。彼は暫し目を伏せて、それから軍服の衣嚢から小さく輝く物取り出した。
「もう、なまえには逢えぬと言うのなら、せめてこれを、彼女に……。私が、彼女に贈った物だから……っ」
それは銀簪だった。俺も見た覚えのある、あの銀簪。あれはやはり鯉登少尉から贈られた物だったのか。一人腹落ちして、俺は頷いてそれを受け取った。もう、何も言う事は無いと思ったから踵を返す。鯉登少尉も、今は何も言われたくないだろうと思った。
「一つ、教えてくれないか」
虚ろな声に俺は振り返って鯉登少尉を見た。絶望と哀しみが綯い交ぜになったその表情を確かに見た。
「なまえは、私の事を、何か言っていただろうか」
その問いに何と答えたか。俺は思い出せないでいる。
***
握らせた銀簪は、翌朝彼女の手から転がり落ちて、布団の隅にあった。決定的な物が抜け落ちた彼女の身体は本当に軽くなっていて、俺は俺の体温で彼女の身体を暖めようとしているのに、その身体は冷たいままだった。
もし、俺が祝福された子供だったなら、きっと此処にいたのは鯉登少尉だっただろう。でも俺は祝福されていないから、此処でただ彼女の亡骸を抱いているのだ。離したくない。離れたくない。結局、病魔は俺を取り殺してはくれなかった。
目を閉じたままのなまえの顔を見た。まるで生きているようだったけれど、もう、ぴくりとも動かない。綺麗にしてやらなければと、思った。
ゆっくりと、身体を起こす。湯と手拭いを用意して、彼女の髪を洗ってやる。最初の内はなまえも嫌がっていたけれど、いつからかこれが俺たちの無言の交流になったっけ。彼女の髪は細いから、絡まり易くて痛まないように梳いてやるのは結構骨だった。
身体も拭ってやる。痩せて骨が浮いた身体を俺は夜毎腕に抱いて寝た。なまえが一度だけ、「あたたかい」と口にした夜を覚えている。
髪も結ってやろう。俺は女の髪の結い方はほとんど知らないが、一つだけ出来るのがある。本当に簡単なやつだが、きっとなまえにも似合う。あの銀簪も差してやれば、不恰好なのもマシになるだろう。
化粧は、道具が無いが紅くらいは差してやれる。なまえが俺に隠れて紅を差して少しでも血色良く振る舞っていた事くらい知っている。
嗚呼、今更気付いても遅いよなあ。俺すらも知らない事だったんだが、なまえ。俺はお前にしてやりたい事が沢山あったようなんだ。
ため息を吐いて静かに視線を落とす。枕元の薬盆の下に、何か置いてあるのが見えた。気になって、取り出してみる。震えた字で、書き付けてあった。
旦那さまへ、と。
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