邂逅

それは突然で、全く前触れの無い事であった。銃声と乱闘の音、そして何か大きなものが水に落ちる音。周囲にはナマエしかいないはずの静かな山に響いたその音に彼女はびくりと身体を硬直させた。

薬師見習いであるナマエは山に薬草を取りに来る事を日課としている。つまり見知った風景ばかりの山中に分け入っていたナマエの耳が捉えた音の数々。それはナマエにとっては聞き馴染みの無い物で、すなわち異常な事態を示していた。

ナマエは生まれつき、耳が良かった。良過ぎた、と言っても過言ではない。三十米先に潜む蝦夷リスの足音を聞き取る事が出来た。のみならず目も良かった。常人には見えない物が見えるのだ。生まれつき、山を歩くのに適した能力が備わっていたという訳だ。

そしてその感度の良い耳で拾った音全てを総合したナマエが導き出した結論は「誰かが川に落ちた、或いは落とされた」という事であった。動物である可能性も僅かに考えたが、微かに聞こえた乱れた足音が「二人分」だった事を思い出し、彼女はその可能性を捨てる。

只ならぬ状況に恐怖を感じながらも慌てて音がした方に向かうナマエは細心の注意を払って川に落ちないようにしながら辺りを見回した。しかし落下したであろう人間の姿は見えず更に慌てた。

この時期の水の温度が心臓を止めてしまう事くらい薬師でなくたって分かる事だ。ましてやナマエは駆け出しと言えど薬師。助けられるものならば早く助けてやらなければ。そう焦る気持ちを押し留めながら彼女は必死に川面に目を走らせる。

数十秒待っても出てこない。流されてしまったのだろうかと募る焦燥感を押さえ込みながら、彼女は岸辺に下りて辺りに目を走らせた。音の質からは落下したのは子どもより大人、女より男のような気がした。何年かに一度、コタンの戦い慣れていない若い戦士が冬の川に落ちて命を落とす事がある。今回もそれだろうか、と僅かな水音も聞き漏らすまいと全神経を自身の耳と目に集中させるナマエがその音を拾ったのは彼女が川辺周辺を探し始めてから数分は経っていた。

ばしゃり、大きな音と共に人影が川辺から力無く這いずり出て倒れ伏した。ナマエの予想は当たっていて、そして外れていた。這い出てきた人間は男だった。しかし、コタンの戦士ではなかった。

(……!)

その姿を岩陰から捉えたナマエは一瞬固まった。離れていても、目の良いナマエにはつぶさにそれが見えた。男は軍服を着ていたのだ。コタンの大人たちの中には昔、「外の人間」と関わって嫌な思いをした者も少なくない。そもそも己自身間接的な被害者である。関わったら何か、コタンに迷惑をかけてしまうだろうか。もし迷惑をかけてしまったら、「また」嫌われてしまうだろうか。一瞬そんな打算をしてから自分の邪な考えに嫌気がさしてナマエは切り替えるように首を振ると男の許へ駆け出した。

「あ、あの、大丈夫?」

男の傍に屈み、恐る恐る声をかけるも彼は返事をしない。まさか既に死んでしまっているのかと思い、厚い胸に触れればそこは僅かに上下している。安堵の息を吐いたナマエはしかしすぐに火を起こす準備を始めた。何はともあれまずは男の身体を暖めなければならないと思ったからだ。触れた男の服は冬の川水を吸い込んでぐっしょりと濡れて重く、また凍りそうな程に冷たかった。

早く早くと気が急くも、ナマエはその思いを無理矢理落ち着けて、焚き木を集める。残念ながら火を起こす事が苦手なナマエだったが、こっそり街に降りた時に和人の行商人からマッチを分けてもらっていたのは不幸中の幸いだった。ナマエはすぐに火を起こす事に成功し、起こした火の傍に男の身体を引っ張り寄せた。それからすぐに雪を掻き集めて鍋に入れ、くべる。

少なくとも初動は何とかなった、と漸く一息ついて改めて男をまじまじと見たナマエは凍り付いた。男が酷い怪我をしていたからだ。まず片腕がおかしな方向に曲がっている。恐らく折れているのだろう。それから崖から落ちた事もあって露出しているところは傷だらけだ。あと顎。

(絶対割れてる……。これ、私じゃどうにも出来ないよね……)

明らかに和人の外科的治療が必要だろう男にナマエは迷いながら自分の出来る治療の準備を始める。それが見も知らぬ人間であったとしても、そしてたとえ自身に害を成す可能性のある人間であったとしても、やはり酷い怪我をしている者を放置しておく事は薬師としても人としても出来なかった。とは言ってもナマエに出来る事は精々折れた腕に添え木をしてやる事と冷えた身体を暖めてやる事くらいなのだが。

まずはしっかりとした枝を探すために一度山に飛び込もうとしたナマエだったが考え直して自身の纏っている鹿皮の外套を取り外して男にかける。それはナマエの体温が移っている事もあって少しばかりは暖かい。大きさは合わないが無いよりはマシだろうと一つ息を吐いてナマエは手近な木を探しに山へ飛び込んだ。まっすぐでそれなりに太く、簡単には折れない木。目が良くて、山歩きにも慣れているナマエにかかればそれはすぐに見つかった。適当な長さにそれを折り取って戻って来た時、ナマエは再び固まった。

男が薄らと目を開けていたのだ。

ばくばくとなぜか跳ねる心臓をそのままに物陰に隠れたナマエだったが、このままでいる訳にもいかないと男の方を窺いながら徐々に距離を詰める。

「…………っ!」

顎が割れて話す事が出来ないのか、鋭い目付きでナマエを睨む男に内心怖気付きながら努めて冷静に彼女は男に話しかけた。

「無理に動こうとすると傷に障るから。出来る限りの事はしてみるけど、今すぐにでも和人の治療を受けた方が良い。兵隊さんは単独行動はしないよね?仲間はいる?」

ナマエの問いに弱々しく頷く男にほう、と安堵の息を吐きながら先ほどかけてやった外套を捲り、歪に曲がった腕に先程見付けてきた添え木を当てる。一瞬男の顔が歪んだようにも見えたがそれも当然だろう。

「……ちょっと痛むよ、ごめんね」

力を籠めて、男の折れた右腕をまっすぐにして添木に固定する。呻き声を上げて顔を歪める男の身体をそっと擦りながらナマエはなるべく痛みを感じないように手早く編み紐で添え木を固定した。

「腕は、これで少しは大丈夫……。えっと、次は、」

添木を当てる時に無理やり真っ直ぐにした腕の感触がまだ手に残っている。弾む心臓を落ち着けようと深呼吸をして、治療の手順を声に出すナマエを男はぼんやりと見ていたがやがてその瞳も目蓋の下に消えてしまった。はっと、ナマエは男の首筋に触れる。その身体は氷のように冷たかった。濡れた服が男の体温を削り取っている事を把握したナマエは厚い軍服の釦に手をかける。少なくともこのままではいつまで経っても体温は上がらないだろう。

「大丈夫、絶対大丈夫だからね」

男に、或いは自身に言い聞かせるように釦を一つ一つ外し、男の左腕だけ軍服から何とか抜くと、ナマエは先ほど火にくべた雪の様子を確認する。良い具合に溶けて温まり、ぬるま湯になったそれを容器に入れて男の首筋に当てる。それから余った湯に手拭いを浸し、軍靴を脱がせた男の足にかけた。

それでも激しくなっている男の震えに、ナマエはもう少し大きな火を起こすためにシタッを火にくべる。それから籠の薬入れからチマキナを取り出す。チマキナの根を輪切りにした物は傷を悪化させる事なく治すと教わったからだ。

腰に付けていたマキリでチマキナの根を刻み、切った端から男の目立つ傷の上に乗せていく。僅かに掠めた指先が感じ取った男の傷口は酷く熱く、患部が熱を持ち始めている事をナマエに感じさせた。

「熱が出て来てる、」

誰に聞かせるともなくつい呟いてしまったナマエの声に意識が引っ張られたのか再び男が目を薄く開く。焦点が合っていないのか虚ろにも見えるその瞳は物言いたげにナマエを映した。唸るように喉から音を出す男に、ナマエは自身の手を雪の中に突っ込んでから冷やす。次第にかじかんで痛むくらいのその手をナマエは男の傷口に痛まないように当てた。

「大丈夫。今レタンノヤを揉んで傷に付けるから、すぐに痛くなくなるよ」

ナマエの冷えた手に僅かに穏やかな息を吐いた男に彼女も安堵の息を吐く。まだ安心はできないけれど、少なくとも男が当面死ぬ事はないだろうと思って。

ナマエは取り出したレタンノヤを揉み、適度な柔らかさになったところでそれを男の傷口に当て、上から当て布をする。粗方の傷に当て布をしてしまえば、今のナマエの能力で出来る事は無くなってしまったため、ナマエは男の様子を注意深く観察しながら彼がなぜ「こんなところにいるのか」を考えた。

獣に襲われたにしてはそれらしい傷跡も無く、足を滑らせたにしては傷が多い気がする。男が落ちる直前にしたであろう乱闘や銃声の音からしてもやはり誰かに襲われた可能性が高いのだろう。

身近な筈の山に潜む悪意にナマエは手を強く握りしめた。自身の親友の事を思い出したのだ。彼女はよく山に入っている。昔は用心棒のような狼がいたが今は彼女一人。山が様々な生命の棲むアイヌにとっての恩恵の場である反面、人間の持つ悪意も巧妙に覆い隠す場所である事が酷く恐ろしく思えた。

ぼんやりと男の顔を見つめたナマエは彼の傷に触らないようにそっとその額を撫でる。いつか怪我をして泣いていた自分に兄がしてくれた事。どんな薬草よりどんな治療より重要な治療の根幹。それは相手を思い遣り手を当てる、本当の「手当て」。

果たしてナマエの「手当て」の効果なのだろうか、男の顔は未だ険しかったけれど呼吸は規則的になってきている。その事にナマエは安堵のため息を吐いた。やはり僅かなりでも自分が関わった人間が死ぬのは気分の良いものでは無い。そう思ってから、ナマエは男がなぜこのようなところにいるのか、その事にもう一度頭を巡らせたが、あまり和人の事には詳しくないナマエには分からなかった。自身の冷えた身体も暖めながら暫し男の顔を眺める。少しずつ腫れが見え始めているその顔に彼女が時折チマキナを張り替えながら幾許かの時間が経った頃だった。

ナマエの耳は確かに捉えた。馬の嘶きと沢山の人間が雪を踏み締める音を。その数の多さと規則正しい足音に彼女は顔を緩める。

「あなたの仲間はもうすぐ来るみたいだね。その毛皮は貸してあげる。ちゃんと治療を受けてね」

手早く散らかした荷物を片付けたナマエは自身の痕跡を入念に消す。いくら怪我人を助けたからといって何人もの軍人と関わり合いになるのはやはり避けたかったからだ。

「何も出来なくて、ごめんなさい。どうか無事で」

最後に一度だけシタッを火に投げ込むと、ナマエは自身の痕跡をなるべく残さないようにしながら崖を登って行った。男が再び薄らと目を開き、彼女の後ろ姿を目で追っている事には気付かずに。彼の傍らにはナマエのマキリが隠れるように落ちている。男は緩慢な動作と手探りでそれを引き寄せるとそっと服の中にそれを隠すように仕舞った。

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