交わした約束

街に辿り着き取り敢えずはと、杉元と別行動を取ったナマエだったがこれからの事など何も考えてはいなかった。頭の固い「大人たち」に比べたら、和人の街には慣れていると思う。だが、たった一人、頼る相手も無い世界で生きて行けるのだろうか。ほとんど勢いでコタンを出たナマエだったが、急に冷静になってみて考えるのはただ一つだった。

(これからどうしよう……)

コタンに戻る気にはなれなかった。何も言わずに杉元と行動を共にした訳だから今更アシパとは顔を合わせ辛いし、コタンの大人たちの中には大っぴらにはしないものの彼女の出生の事でナマエの事を遠巻きにする者もいる。何より今コタンに帰ってしまえばもう二度と、自分は兄との約束を果たす勇気を持つ事はないだろうという確信が、ナマエにはあった。

ナマエは兄との約束を違えた事が無い。違えようと思った事が無い。親のいないナマエには、兄だけが同じ血を持つ同胞であり道標だった。兄はいつも強くて正しくて、彼女を導いてくれた。たとえどんな理不尽が降り掛かろうとも、彼は常にナマエの庇護者であった。

それでも杉元との約束は「近くの街まで」で、その約束が果たされてしまった今、杉元がナマエと共にいる理由はもう無い。

(まずは路銀を稼いで、それから常宿を見つけないと……)

これからの事を考えて少し憂鬱めいた気分になるのは仕方の無い事だろう。それでもナマエは帰る気になれなかった。コタンではずっと息苦しさを感じていた。

生まれ落ちる前の「とある事件」により、ナマエは両親の手を離れた「コタンの子」になっていた。そのせいか、正式な名も与えられない程幼い頃から、「大人たち」はどこかナマエを遠巻きにし、腫れ物に触れるように扱った。両親は、八つ上の兄だけを我が子と呼び、ナマエの事は一瞥すらしなかった。世界にただ二人、兄とアシパを除いて、ナマエを心から受容する者はいなかった。少なくともナマエはそう思っていた。

寂しくて堪らなくて、どうしようもない孤独にナマエが泣くと、いつも兄が寄り添ってくれた。優しく背中を撫でる繊細な手とは正反対の豪放な笑顔で言い放つのだ。

こんなコタン、いつか二人で出て行こうな、と。

ふぅ、と憂鬱のため息を吐き出したナマエだったが、ぴく、と身体を揺らす。不穏な空気の揺らぎを感じ取ったのだ。凝縮された人間の悪意と敵意と殺意が混ざったどろどろとした空気。しかもそれは杉元と約束した合流地点の方から流れてくる。

(……まさか、っ!)

嫌な予感に足が駆け出す。確証も無いのに何故かその悪意が杉元に向けられている気がしたのだ。縺れる足を叱咤しながら何とか角を曲がり、開けた道へ出る。人混みを見つけてそこに駆け寄れば。

捕縛される顔面血塗れの杉元と目が合ってしまった。

「すぎも……、っ!」

しかしナマエが声をかけようとすれば強い瞳でその声を強制的に遮られた。ナマエが目を見開けば小さな動作で杉元の首が振られる。そして。

(に、げ、ろ……?)

杉元の口の形がそう動いているのを見てナマエは初めて杉元が本当に何か危ない事に関わっているのだと気付いた。そして自分がその領域に片足を突っ込んでいる事も。

乱暴に連行されて行く杉元を遠巻きに見送る野次馬たちの声に耳を集中させる。兎に角情報を集めたかった。

(だいしちしだん……?)

ナマエには理解不能な言葉が多く、あまり情報らしい情報は収集できなかったが、それでもその言葉だけは彼女の耳に強く残った。その「音」がどのような「意味」を持っているのかも分からなかったが、とにかく杉元が危ない事だけはナマエは理解した。しかしだからと言ってナマエに何が出来るのだろう。正面きって杉元を返してくださいと言いに行けばいいのだろうか?

(……とにかく、もっと情報を集めよう)

自らを奮い立たせるように手を握り締め、身を翻して雑踏に消えるナマエ。その姿を見ていた者がいる事に彼女は気付かなかった。

***

第七師団の根城に連行された杉元はこの状況をどう切り抜けるか頭を巡らせていた。目の前の男─鶴見を出し抜かなければ杉元には遅かれ早かれ死あるのみ。

刺青人皮は隠してしまったから今すぐブツが第七師団の手に渡る事は無かったがこのまま尋問が続けば或いは耐え切れず杉元の口が緩む可能性もある。

「……そう言えば、」

ふと思い出したように口を開く鶴見に杉元は視線を向ける。男は真意を感じさせぬ表情で頬杖を突いていた。

「瀕死で発見されたその部下には『何者かによって治療が施されていた』。そしてその何者かとは恐らくアイヌだ。薬草が多分に使われていたところを見ると薬師だろうか?心当たりは無いかね?」

杉元は内心目を見開く。心当たりしかなかった。

ナマエ。

川に落としたあの兵士が杉元たちを襲った男である事などナマエには知りようが無く、また彼女の性質や生業を考えれば目の前に倒れている瀕死の人間を放っておく事も出来ない事も杉元には手に取るように分かった。しかしそのお陰で今やナマエにまで第七師団の手が忍び寄っている。護らなければ、あの少女を。己の業とは何の関係も無い彼女を。一瞬のうちに覚悟を決めた杉元は不敵に微笑んで鶴見を睨み上げる。気取られたら最後だと分かっていた。

「生憎アイヌの薬師に知り合いはいない。大体アンタそいつを見つけたとしてどうする気だ?礼でも言いに行くのか?『部下を助けてくれてありがとう』とでも?」

「成る程、それも良い。だが私の目的はそこでは無い。私の知人が『彼女』を探しているのだよ」

鶴見の言葉に杉元は舌打ちを何とか抑える。この男はもう既にナマエの輪郭に手をかけているのだと知って。

「知り合いだと?アンタの言うアイヌの薬師がどうやったら軍人の知り合いと知り合える?」

鶴見の表情を読み取らせない顔を睨み付けながら杉元はナマエの姿を思い起こす。彼女と第七師団との繋がりを想像しようにも全く出来なかった。

「全く……、知りたがりはこれだから困る。これを見た事は?」

すっと鶴見が取り出したそれはマキリだった。アシパが持っていたものと似ていたが文様などが微妙に異なっている。

「これが何だって言うんだ?」

「助けられた部下が持っていたものだが、これを見た知人が言うのだよ。『知り合いの小刀だ』と」

だが部下に経緯を聞こうにも奴は未だ話す事も出来ん。ならば私自ら探す迄の事。

肩を竦める鶴見に杉元も肩を竦める。そして嘲るように口端を持ち上げた。

「残念だがそんな小刀を見た事は無い。大体あんたの知り合いが言う事だって正しいとは限らないだろう?似た小刀だって沢山あるだろうし、本当にその小刀がそうなのか?」

「疑り深い男だ。…………浅葱鼠色の髪」

「っ!」

囁かれたそれは確かに杉元には覚えがあった。鶴見には既にナマエの輪郭どころか姿形が見えているのか?

「琥珀色の瞳はまるで狼のそれの如く。顔立ちは、そう、だな。一つ一つの部品全てが完璧な対比で配置されている……、まだ言うかね?」

「……あんた、何が知りたいんだ?」

動揺を悟られないよう目に力を籠めて鶴見を睨む杉元に鶴見は勿体付けて口端を持ち上げる。それからうっとりとしたような恍惚の表情を浮かべ口を開く。

「簡単な事。これを持っていた少女の事全てだ。全てを知りたい。名前、年齢、生い立ち、家族構成、生業、趣味……」

……私情が混じっている気もする。兎に角鶴見にナマエの事が悟られるのはまずい。杉元は生唾を飲み込みつつ如何にして鶴見の追及を躱すか算段を始めた。

***

街の人間にそれとなく情報を聞きつつ、ナマエはある男の許に辿り着いた。その男は街の情報を収集しているらしく、目端が利くのだと。その男に会ってどうにか出来る問題かも分からなかったがとにかく第七師団とやらの情報を集めない事にはナマエには杉元を救う手立てなど持ち合わせてはいなかった。

男が潜んでいると聞いた小屋の気配を窺う。普通の人間にはまず聞こえないだろうがナマエにははっきりと聞こえた。小屋の中で蠢く人間の衣擦れの音、呼吸の音までも。

ええいままよと窓から無理矢理飛び込めばやはりいた。咄嗟に逃げ出そうとする男に足払いをかけて馬乗りになる。暗闇では夜目が利く分ナマエの方が有利だ。眩しいくらいの月明かりが差し込んでナマエと男の顔を照らした。

「誰だ!?……、アイヌ?」

「あなた、杉元の事を知っている!?」

「は!?お前誰だ!」

「そんな事はどうでも良い!杉元の事を知っているのかと聞いている!」

失くしてしまったマキリの代わりを月明かりに光らせながらナマエは顔を歪める。早くしなければ杉元が危ないと分かっていた。

「ああ?何?っ、今度は何だ!?」

不意に窓から更に別の気配がして咄嗟にナマエは男から距離を取る。それは獣の息遣いであった。

「えっ!レタ!?」

「は!?いだだだだだ!!!」

「レタ!食べちゃダメ!っ、ナマエ……!?」

「ア、アシパ!?どうしてここに!?」

目を見開くナマエとアシパに男は怪訝な顔をする。そしてアシパの顔を見て思い出したように目を見開いた。

「おめえ、あの時のアイヌのガキか!ガキが二人に増えたぞ!」

「アシパ、この人と知り合いなの?」

「少しだけだ。こいつは脱糞王の白石……」

「脱獄王だ!それで……、お前も杉元を探してるクチか?さては裏切られたな?刺青の皮も持ち逃げされたんだろう」

「白石!」

ぱっとナマエの方を振り返るアシパにナマエは首を振る。アシパの窺うような表情にナマエは綺麗な笑顔を作ってみせた。

「いい、何も聞かないよ。私は杉元を助けるためにここまで来ただけだから」

「ごめん、ナマエ……。後で必ず話すから。そうしたらナマエも、何でここにいるのか教えてくれ」

頷いてお互いに手を握るアシパとナマエを見ていた白石だったがふと思い出したように口を開く。

「杉元は第七師団に連れ去られた。噂を聞いたよ。顔に傷跡のある軍帽の男が大暴れして第七師団の根城に連れて行かれたって」

「本当だろうな?」

「それは本当。私が見ている。助けようとしたけど、一人じゃ難しそうだった……」

白石に疑いの眼差しを向けるアシパにナマエは同意を示す。

「ただのアイヌのガキに第七師団が出し抜けるかよ。アンタが何かしようとしたって無駄だよ」

肩を竦める白石に、ナマエは強い光を湛えた目を向ける。

「だからあなたを捜していたんだよ。助けて欲しい。一度だけ音を窺った時はまだ杉元の声が聞こえた」

「は?音ォ?」

「ナマエの耳はカムイから与えられた耳だ。私たちには聞こえない音もナマエには聞こえる」

俄かには信じ難いと疑りの目でナマエを見る白石にナマエは目を細める。

「信じる必要は無いよ。ただ私にはあなたの心臓の音も呼吸の音も筋肉の動きも全てが分かる。急所の位置も、何もかも。暗闇も、私には通用しない」

「ナマエの耳と私の弓矢があればお前など取るに足らない。杉元を救う。協力しろ」

毒矢を弓につがえるアシパに生唾を呑み込む白石は神妙な面持ちで頷く。

「分かったからそれを下ろせよ。……全く、物騒なガキどもだな。眠気覚ましに顔を洗ってくる。待ってろ」

勝手口の方に消えていく白石の背中を睨みながら、アシパはそっとナマエの様子を窺った。開け放たれた窓から差し込む月光がナマエの琥珀色の瞳を爛々と輝かせている。拡大した瞳孔から見るに恐らくナマエにとって月夜の晩など真昼と全く変わらないのだろう。

「その、ナマエ……」

「ごめん、アシパ。あなたに何も言わなかった。……言えなかったし、言おうとも思わなかった。私はあなたに何も言わずに、あのコタンを捨てようと思った」

「……ナマエ、」

機先を制され出鼻を挫かれたアシパにナマエは微笑む。それはコタンにいた時と何も変わらない、アシパの大好きな彼女の親友の笑みであった。

「全てが終わったら、聞いて欲しい。そして、アシパがどうしてここにいるのかも、聞かせて欲しい」

「……ああ、約束だ」

微笑みあう二人だったが不意にレタの反応と前後してナマエが勝手口を覗く。それから顔を歪めた。

「あいつ、逃げた!」

アシパも小屋の外を窺えばそこには全力疾走で逃げていく白石の後姿が。お互いにため息を吐いてアシパとナマエは顔を見合わせて笑った。だって、レタの、ホケウカムイの追跡から逃れられる者など誰もいないのだから。

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