思い出が蘇る

杉元たちも寝静まったチセには彼らの規則的な寝息と炎が弾ける音、そしてナマエが薬草を磨り潰す音だけが響いている。久方振りの心落ち着く時間に谷垣は瞳を巡らせてナマエの横顔を見つめる。その横顔は見れば見る程、「彼」の言葉が正しかった事を証明した。

髪の色も瞳の色も僅かばかりの炎の明かりでは判別など殆ど出来ないけれど、そんな外見上の目印など必要ないくらいに彼女はその通りだった。鶴見の許に身を寄せる「あの男」の話に。

「……傷が痛むの?」

不意にナマエがぽつりと言葉を紡ぐ。相も変わらずその視線は薬草と薬皿に向けられていたけれど彼女の意識の視線だけは谷垣の方に向けられていた。不躾な視線に気分を害しただろうかと谷垣は謝罪の言葉を述べる。その言葉にナマエは訝しげな顔を谷垣の方に向けた。

「どうして謝るの?怪我をしている人間に薬師が状態を聞くのはおかしい事?」

「いや、すまん。そういう意味じゃない」

「……ふうん。傷が痛むのなら言ってね。我慢するのは良くないし、あなたの場合は眠れないくらい痛くてもおかしくない怪我をした訳だし」

再び薬皿に視線を落とすナマエはしかし再度、今度は窺うように谷垣に視線を向けた。それは何かを言い澱んでいるような、もの言いたげな視線だった。

「なんだ?」

「……あなたは、第七師団の人だったよね?」

「……それが」

押し殺したようなナマエの声に谷垣も押し殺したようにな声で返答する。つい最近まであそこにいた筈なのに何故だかもう、それがずっと以前のことのように谷垣には感じられた。

「少し聞きたいんだけど、私たちアイヌの中には先だっての戦争に行った人がいる。……あなたも?」

「ああ、俺も従軍したが確かにいた。……数は少なかったが俺も戦場で何人かとは会話した」

ナマエの琥珀色の瞳が小さな炎の揺らめきを反射して輝く。二瓶鉄造の息の根を止めたあの狼のような美しい瞳だと、一瞬谷垣は全てを忘れて彼女の瞳に魅入られた。マタギの血が疼いた気がした。

「……じゃあさ、エコリアチっていう名前に聞き覚えはある?」

「……!」

唐突に紡がれた名に、嗚呼やはりその名を、と言いたくなるのを谷垣は既のところで押し留める。そうしてナマエの容姿を上から下まで見てから己の推測が正しい物であったことを知った。

「兄は兵隊になって、第七師団に配属されたって聞いた。軍の事はよく分からないけど、もしかしたらあなたたちと同じ隊だったんじゃないかって、思って……」

違うのかな、震えるような声でそう問うナマエの横顔に今は亡き妹の面影が見えた気がして谷垣は無理矢理に身体を起こそうとして失敗する。焼けるような傷の痛みに呻き声をあげながら蹲る谷垣にナマエが苦笑しながらにじり寄って彼の身体を支える。

「まだ寝ていないと駄目だよ。スクは強い毒だし、肉を抉ったからと言って安心はできないんだから」

小さな身体で谷垣の身体を支え寝床に戻すナマエの顔を谷垣は見つめる。あの青年が笑いながら話してくれた「妹」の事を思い出した。

「……俺は、お前の兄を知っている」

「……!」

呻き声と同じくらい低く吐き出された谷垣の言葉に息を呑むナマエの顔は歪んでいた。その顔に谷垣は一度だけアシパが言っていた話を思い出す。

ナマエの兄はあの戦争に行って、そして「帰ってこなかった」。

「……エコリアチ、あいつは確かにそう言った。アイヌ語で意味は、」

「……『宝物を集める』。もし何か知っているなら教えて欲しい。兄はどんな風に生きた?私のことを何か言っていた?……どんな、最期を迎えたの?」

ナマエの悲痛な声が夜半のチセに小さく響く。その顔に谷垣は目を覆いたくなった。

「初めて会った時は、酷く警戒されていた。それでも妹の話をする時のあいつはひどく穏やかな顔で笑っていた。……あれはお前の事だったんだな」

目を瞑れば今でもあの戦場の光景が目蓋の裏に鮮やかに蘇る。砲弾が炸裂し、味方も敵も死んでいく、いつ自分の番が来るとも知れない。その中で、エコリアチは勇敢に戦った。そして彼ほど「帰りたい」と切望している者はいなかった。「妹のために」そういう彼の横顔と、ナマエの顔は何と似ている事か。谷垣がそう伝えてやるとナマエは嬉しそうに目を細める。

「……そっか。兄さん、私の事、思い出してくれたんだ」

「お前はあいつとよく似ているな。初対面の時から、初めて会ったという気がしなかったのはそのせいか」

「……そう、かな。言われた事が無いから、分からないや」

妙に悲しげに微笑むナマエに谷垣は違和を感じたが、すぐにその考えは霧散した。拍動痛がぶり返していたからだ。

「……今度こそ傷が痛むんだね?今痛み止めを塗ってあげるから」

「すまん」

「良いよ。これが私の仕事だから」

「……すまん」

尚も謝罪の言葉を口にする谷垣にナマエはおかしそうに笑ってから、薬皿から軟膏のようなものを擦り取る。自身の傷の治療をするナマエの横顔を見ながら、谷垣は彼女に気取られぬように深い息を吐いた。

脳裏によみがえるエコリアチの顔。ナマエの興味は谷垣の傷へと移ったようで、彼女の兄の話は終わったようだった。その事に谷垣は安堵した。嘘を吐くのは苦手だった。尤も、彼は全て本当の事しか言ってはいない。敢えて「言わなかった事」があっただけなのだが。

***

暗闇を割くように差し込む月明かりが男の瞳を輝かせる。

「ああ、見てください、鶴見中尉。雨が止みました」

帷幕の隙間から窓の外を覗いた青年は嬉しそうに振り返って目を細める。視線の先にいる男はゆっくりと立ち上がり、青年の肩越しに外に目をやった。

「丁度良い。貴様に遣いを頼もうと思っていた、…………エコリアチ」

誰もを従えそうな強い光をその目に宿し、鶴見は笑った。エコリアチと呼ばれた男は微笑と共に首肯した。

「目的を達するまで、俺はあなたの道具ですからね。何なりと、言ってください」

その笑みは酷く甘く、蠱惑的であった。

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