尾形に誘導されて江渡貝剥製所に集まった面々に突きつけられた新たな真実。それは偽物の刺青人皮がバラ撒かれた可能性があるという事であった。一度に与えられる情報にくらくらと眩暈じみたものを感じながらナマエは土方の手に握られた刺青人皮を見つめた。見た目は今までに集めてきたものとそう変わらないように見える。尤もナマエ如きが見破れるくらいの贋作など役に立つはずもない訳なのでナマエが見破れないのは当然と言えば当然である。
不穏な雰囲気を警戒したのか、猫が抱かれていた土方の手から逃れ、ナマエの方にやって来る。身を摺り寄せる禽獣をナマエは堪らず抱き上げた。
「……大丈夫だよ。何でもないからね」
未だ煤煙で黒く煤けたナマエの頬を猫のざらざらとした舌が舐め上げるのを彼女は薄く微笑んで受け止める。擽るようにその肢体を撫でればにゃおん、と一鳴きした猫が腕の中で丸くなるのが唯一、先の見えないこの状況でナマエの救いだった。
***
空腹を訴えるアシリパの腹の音を皮切りに食事の準備が執り行われる。自分も食事の準備を手伝おうとして、未だに自身が煤煙で汚れている事を思い出したナマエはまずは身を清めようと腕の中の猫をゆっくりと地面に下ろす。汚れを確認しようとしてきょろきょろと姿見を探すナマエだったが、その眼前に突然濡れた手拭いが突き付けられた。反射的にそれを受け取ったナマエは目の前の男をまじまじと見てから回想する。確か彼は土方と同じ陣営にいたのではなかっただろうか?
「あの、これ、」
「さっさと拭け。いつまでもそのままだと落ちなくなるぞ。適当に落としたらあとは風呂にでも行って来い」
「あ、ありがとう。助かります、……?」
既に煤煙の汚れも粗方落とし終わったのか、三十年式歩兵銃を担いだその男は気の無い表情でナマエを見る。その顔にどこか既視感を感じたナマエは首を傾げる。下から見上げるように男を見るナマエに男も訝しそうにナマエを見返した。しかしその顔はどこか期待したようでもある。
「……なんだ?」
「……あ、えっと、私、あなたとどこかで会ったような気がするんですけど、気のせいですか?」
「…………は?」
琥珀色の瞳を細めて記憶を辿るように視線を漂わせるナマエに男、尾形は目を見開く。僅かに期待を孕んだ顔は引き攣り、期待外れの贈り物を渡されたかのように歪んでいる。
「オイ、お前、」
「うーん……?気のせいじゃない、ような……。どこだっけ……?あの、変な事聞いてごめんなさい。前に会った事ありますか?」
至って真面目に小首まで傾げて尾形を見つめるナマエの純粋な目に、尾形は何か残念なものを見るような目で彼女を見た。
「………………」
その視線のあまりの強さにナマエはぴん、と背筋を伸ばした。無言の圧力がこれ程までに怖い人間をナマエは未だ知らなかった。
「あ、あああ、えっと!和人の、しかも軍人さんと私に接点なんか無いですよね!きっとどこかで似た人を見ただけなんだと思います!紛らわしい事を言ってごめんなさい、これ、ありがとう!」
誤魔化すように引き攣った笑みを浮かべるナマエは受け取った濡れ手拭いでごしごしと乱暴に顔についた煤を拭っていく。尾形は暫く何も言わずに(或いは何も言えずに)それを見ていたが信じられない物を見るような、訝し気な顔を隠しもせず煤を拭った彼女の顔を有無を言わさずに自分の方に向けた。突然の狼藉にナマエの琥珀色の瞳は大きく見開かれる。
「な、なに!?」
「……お前、それは本気で言ってるのか?」
「本気?それ?なんの事?」
尾形の言う事の意味が理解出来ずに困惑の表情を浮かべるナマエの様子を窺う尾形だったが、しかし目を細めて口を開く。
「お前、あのアシリパとかいうアイヌのガキと同じ集落にいるな?」
「う、うん。そうですけど……?」
「薬師だな?」
「何でそれを知って……」
「なら、これに見覚え、」
尾形が懐からあのマキリを取り出そうとした時だった。不意に尾形の背後に気配が現れる。接近すら気取られなかったその気配は尾形には既に馴染みあるもので苛立たしさに彼は舌打ちした。
「お嬢さん。少し良いかな?」
「私、?良いけど、なんですか?」
にっこりと人好きのする笑みでナマエを誘う土方の許にとことこと歩み寄るナマエの耳許に落としきれていない煤を見付けた土方の大きな手が彼女の手から取り上げた濡れ布巾でそこを優しく拭う。大きな瞳に土方を映したナマエはぱちりと目を瞬かせてから「ありがとう」と微笑んだ。
「礼には及ばない。だが、牛山が先ほどの大非常で軽傷を負ったのでね。君は薬師だろう?治療をしてやってくれんかね」
「……!はい!」
頼られる事が嬉しいのか朗らかな笑顔で頷くナマエは早足でその場を離れて行く。後に残ったのはにやにやと口端を持ち上げる土方と射殺さんばかりの視線で土方を睨み付ける尾形だけだ。しかし土方はそんな視線など物ともせずすっとぼけたように肩を竦めた。
「おやおや、何をそんなに睨むのかね?」
「ジジイ、テメェ……」
「あの娘さんがお前の探していたアイヌのお嬢さんとは限らんだろう。なにせ北海道は広い」
くつくつと喉奥で笑う土方に尾形は更に視線を鋭くさせる。それは触れれば切れてしまうナイフの如き鋭さを孕んで土方を襲うも肝心の土方自身はその視線に臆する事も無く笑みを深めた。
「実に可愛らしい娘さんだ。素直で物分かりも良く、愛嬌もある。……その小刀を持つに相応しい」
「……何が言いたい」
尾形が懐から取り出したマキリに流すように視線を送りながら土方は挑発するように鼻を鳴らす。しかし一頻り楽しんだのか、彼は次の瞬間にはその笑みを消す。残ったのは歴戦の戦士にのみ許される厳しい表情だった。
「……あの娘、第七師団と関わりがあるだろう」
その言葉に尾形はせせら笑う。
「俺が造反したとは言え第七師団だったという事をお忘れかい?それ以外に、あのガキと一体『何が』第七師団を繋ぐ?」
「…………そうだな。しかし、これを見ても同じ事が言えるのかね?」
尾形を睨む土方を、尾形もまた睨み返す。どちらも視線を外さないまま、土方は尾形に向かって何かを放り投げた。ぱしりとそれを受け取った尾形だったが初めて僅かに目を見開いた。それに、見覚えがあった。
「……これは、」
「あの娘さんには見せない方が良いと思ってね。……アイヌの手甲だ。見覚えがあるだろう」
それは繊細な刺繍の施されたアイヌの手甲だった。そしてその文様を、尾形は知っていた。それを最後に見たのは確か、尾形が病院を抜け出す前の事だ。
(これを、「あの子」に返してやってくれないか?無くしてしまって、きっと困っているはずだから)
いけ好かない男だったがその真剣な目に尾形は頷いてそれを、あのマキリを受け取ったのだ。その男が身に着けていた、手甲だった。
「…………、」
「やはり鶴見の許にはあの娘に関わりのある者がいるな?」
尾形の表情の動きに確信を得たように言葉を発する土方に尾形は微かに頷く。土方は鋭く目を細め、そして僅かに瞳を巡らせた。
「あの娘、何も知らないのかね?…………第七師団の手先である可能性は?」
「…………この手甲の持ち主は、あの娘とは何の関わりもないところで動いていると言っていたがな」
土方の言葉を即座に否定した尾形であったが、しかしすぐに興味を無くしたように肩を竦めた。
「だが、あの娘が第七師団と関わりがあろうが無かろうが、あんたが俺を邪魔する理由にはならないぜ?……二度と、俺の邪魔をするんじゃねえ」
燃えるような激情を仄暗い瞳に見え隠れさせながら、凄む尾形に土方は笑みを深める。
(「坊や」なりに良い表情をするではないか……)
少し離れたところで牛山の手当てをする(小さくて柔らかな少女の手に触れられて興奮する牛山を白石が必死に押さえている)ナマエを見やる二人だったが、彼女と視線が交わる事は無かった。
***
月島と共に小樽に戻ったエコリアチだったが、彼はこれ以上ないほどに沈んでいた。というのも。
「夕張に帰る、帰らせてください、何でもするから!一生のお願い!」
「エコリアチ!落ち着け!!」
半泣きで月島に取り押さえられるエコリアチに鶴見は肩を竦める。
「エコリアチ、どうしたというのかね」
「尾形上等兵と月島軍曹がやり合ったせいで俺は命より大事な、ナマエが作ってくれたテクンぺを江渡貝くんちに置き忘れてきちゃったんです!!ねえ良いでしょう!?取りに帰らせてくださいよ!早くしないと中尉はどうせ証拠を消しにあの家を燃やしに行っちゃうでしょう!?それか俺にその役をさせてください!ナマエ以外全員燻製、これで良いでしょう!?」
普段の慇懃で冷静な態度はどこへやら。なりふり構わずじたばたともがくエコリアチに鶴見と月島は顔を見合わせる。案外、第七師団で最も厄介なのはこの男なのかもしれないという妙な確信と共に。
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