妙に刺々しい気を隣に感じて杉元は振り返った。そして顔を引き攣らせる。そこには自身の天敵、「コウモリ野郎」が実に不機嫌さを隠そうともしない顔で立っていた。あからさまな殺気を放ちながら。
「…………、」
「おい、尾形、どうしたんだ?」
杉元自身は絶対に触れるものかと思って見ないフリをしたのだが(だって触れたら最後、面倒な事に巻き込まれること請け合いだ)、残念ながらアシリパにはそのような思いは無かったようだ。物怖じもせず、尾形の許に近寄って行き、前置きもへったくれも無く声をかける。
「……別に」
地を這うような低い声に首を傾げるアシリパたちであったが、尾形の視線の先を追う事でその顔は更に疑念を色濃くしたものになってしまう。というのも。
「ナマエ嬢、大丈夫かね?」
「大丈夫です、ここに来るまでにだって馬で二人乗りをした事もあるから」
というのも尾形の視線は離れて行く土方一行、その中でもただ一人、ナマエに注がれていたからだ。しかしながらナマエは既に杉元組には背を向けてしまっていてその視線に気付いていないようであった。土方の操る馬に同乗して、早くも一向に馴染んでしまっている。少し前まで敵同士だったはずの家永とも一言二言にこやかに会話までする程に。
江渡貝剥製所の証拠が炎の渦に消えた後、纏まって動くには大きくなり過ぎた集団を二つに分け、一行は二手に分かれて月形を目指す事となった。アシリパや杉元は当然にナマエと共に月形を目指そうとしたのだが、偶々家永の負った火傷の手当てをしていたナマエはアシリパたちと合流する事が出来ずに土方と共に月形を目指す事となった訳だ。暫しの別れと一瞬手を振り交わしてお互いに背を向けたアシリパとナマエであったが、アシリパよりも付き合いの浅い尾形の方がいつまでも後ろを振り返ってナマエの事を気にしているようだった。
「尾形、本当にどうしたんだ」
「あの嬢ちゃんに何か言う事でもあったのか?」
口々に様子のおかしい尾形に声をかける一行に尾形は何も答えない。ただ時折彼は振り返り、いつまでも離れて行く土方一行、もといナマエの事を気にしているようであった。その背中が消えてしまうまで、ずっと。
***
人目に付かないように山を歩く事は思った以上に体力を使う。うら若き少女もいる旅であるため、杉元たちは先を急ぎながらも出来る限りこまめに小休止を取っていた。
各自思い思いに休息をとる中で先ほどよりも随分マシになったとはいえ、依然として尾形は刺々しい気を放っていた。黙々と自身の三十年式歩兵銃の手入れを行う尾形だったが近付いてくる影と気配に顔を上げる。そこにいたのは案の定杉元であった。あの日露戦役の英雄と名高い正に鬼神と呼ばれるに相応しい形相で。
「尾形、テメェ、何企んでやがる?」
「お、おい!杉元!」
般若もかくやといった形相で尾形を睨む杉元をアシリパが宥めるようにその背に手を添える。彼女は杉元が理由も無く他者に対して険悪な顔を作る事は無いと知ってはいたが、尾形はかつて杉元の命を狙った男だ。結果的には返り討ちとなった訳であったが果たしてそれは杉元が尾形を邪険にするには十分過ぎる理由になるような気がして、アシリパは固唾を呑んで睨み合う両者の顔を見つめた。
「何って、なんの事だ?何もかも説明不足で俺はお前の言いたい事が何一つ分からんね」
一人状況を把握しかねている牛山が困惑気味に睨み合う杉元と尾形の顔を見比べている。そんな面々を尾形は挑発するように口端を持ち上げた。険しかった杉元の顔が更に険しくなり、尾形に掴みかからん勢いで杉元は彼に詰め寄る。
「しらばっくれんじゃねえ、ナマエさんの事だ。随分気にしてたよなあ?……何が目的だ」
地を這うような低い声にアシリパは身震いを押さえるように己の身体を抱いた。彼女は改めて杉元の恐ろしさの部分を感じたのだが、当の尾形の方はそんなものものともしない。ただ、にや、と笑って「それはお前の方が分かってるんじゃねえのか?元はと言えばお前が元凶だしな」と嘯く。
「なんだと?」
「俺は義理深いんでね、受けた恩義は忘れねえのさ。あの娘にはお前に殺されかけたところを助けてもらった。……礼ぐらい言ったって罰は当たらねえだろう」
「それがナマエさんだっていう確証は?ある訳ねえよな?適当な事言ってっと……!」
細めた瞳に獰猛な色を乗せて尾形を睨む杉元に尾形は挑発的な笑みを崩さずに肩を竦める。それから自身の荷物から件のマキリを取り出した。
「おい、お前これに見覚えがあるだろう」
それをアシリパに示す尾形に近寄った彼女は目を見開いた。
「こ、これ、どこで!……これ、ナマエのマキリだ!」
「何?お前の探してた女ってあの嬢ちゃんなの?」
驚愕の声を上げるアシリパに追随するように牛山が未だ困惑した表情を隠しもせず口を開く。杉元はそのマキリを確かめるように睨み付けていたがその瞳の鋭さは消える事は無い。
「たとえそれがナマエさんの物だったとしてさっきまで一緒だったんだ。礼ぐらい、すぐに言えるだろうが。……わざわざこそこそと様子を窺う必要なんかねえだろう!」
「はっ、これだから野暮な男は困るよなあ?あの娘は中々、悪くない。これを機に『お近付き』になろうって思う男がいてもおかしくないだろう?」
にや、と笑った昏い瞳に欲望を見て取った杉元は弾かれたように尾形に詰め寄る。
「っ、ナマエさんに何かしたらどうなるか分かってるだろうな!?」
「熱くなるねえ……あの娘はそれ程に大事かい?」
楽し気に杉元を煽る尾形の胸倉を掴もうとする杉元の手はそれより早く出た牛山の手によって押さえられる。その手に我に返った杉元は無理矢理尾形にかけた手を下ろすと射殺すように尾形を睨み付ける。
「ナマエさんや、アシリパさんに何かしたらただじゃおかねえ……!」
吐き捨てられた言葉に尾形は肩を竦めてただ、笑うだけであった。
***
土方の操る馬に同乗していたナマエは当初、酷く緊張していたが今は寧ろ安心すらしていた。というのもナマエはこんなにもの大勢と共に行動した事が無かったからだ。勿論ナマエだって誰かと共に行動する事が無い訳ではないが、それはナマエも打ち解けている気の置けない相手である事が多い。
同行する面々には白石やキロランケはいるものの、少し前まで敵だった(ナマエも狙われていたらしいが、生憎ナマエは深い眠りに就いていたため覚えていない)家永や、脱獄囚の土方、そして腹の読めない永倉。
一歩間違えれば敵対していてもおかしくなかった(一部は既に敵対済みだ)面子にナマエは少し怯えてすらいたが彼らはナマエの予想に反して比較的友好的に彼女に接してくれたため、ナマエも何となく彼らと打ち解けることが出来た。その点ではナマエは酷く安心していた。険悪な雰囲気には耐えられそうになかったのだ。
「そう言えば、ナマエ嬢は尾形と知り合いだったのかね?」
「……え?どうしてですか?」
唐突に背中の方から掛けられた声にナマエは思考の渦を途切れさせて背後の土方を振り返る。土方は前を見ながらも視線を僅かに落としてナマエに微笑みかけた。
「あの『坊や』が随分とナマエ嬢を気にしていたようだったからね。合流してそれなりに経つが、奴がただ一人をそれ程までに気にする事は無かった」
(坊や……。土方ニシパから見れば、尾形は坊や……)
尾形とは対極にあるような冠称に目を瞬かせるナマエを穏やかに微笑みながら見つめる土方の声が聞こえたのか家永も振り返る。
「そう言えばそうですわね。あ、そう言えばあの小刀……」
「家永」
「はい?……ああ、そうですね。何でもありません」
何事かを言いかけた家永にナマエは視線を向けるも家永の言葉は永倉に遮られてしまう。永倉の雰囲気から何かを察したのか非常に生温い笑顔で微笑む家永にナマエは首を傾げるが、彼らは何も答えない。
「心当たりは、特に無いですね。私は、普通のアイヌで軍人さんの知り合いなんかいないし、尾形も私の事知らないみたいだったし……」
「果たしてそうかな?今までに何度か軍人と良くも悪くも『交流』しただろう?それでも君は『普通のアイヌ』なのかね?」
「……あ、確かに。うーん……、尾形みたいな人、いたかな……?」
首を捻るナマエに土方は内心で笑みを深める。それから彼の言う「坊や」の悔しそうな顔を想像して声を上げて笑いそうになった。思考を巡らせるナマエに前方で話を聞いていたキロランケが楽しそうに含み笑いで振り返る。
「なんだ?ナマエはあの尾形とかいう男の事が気になるのか?」
「ち、違う!……、キロランケニシパはすぐにそういう事言うよね……」
にまにまと口端を持ち上げてナマエを見るキロランケにナマエは頬を僅かに赤らめて眉を寄せる。少しばかり拗ねたようなその表情にキロランケは更に笑った。
「はは、お前の事は小さい頃から知っているが成長したなあ。初めてじゃないのか?男の事をこれだけ気にするのは。……初恋、良いねえ、青い!」
「……違うってば!しかも、……っ、初恋じゃないし!そうじゃなくて、土方ニシパが尾形とどこかで出会った事ないかって……」
「いや、覚えが無いのなら構わんよ。可笑しな事を言ってすまないね」
「なに!?ナマエちゃん、俺の事喋ってる?初恋って俺!?」
「ううん、白石の事は何も話してないし、私の初恋は別の人。ちゃんと前見ないと落ちるよ」
「凄い!一刀両断!!」
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