閑話・初恋の想い出

ぱちぱちと爆ぜる焚き火を見つめるナマエは、静かに息を吐く。白石の「恋物語」に一瞬どきりとしてしまったのを誤魔化すように。いつもはふざけている白石のあんなに真剣な顔などナマエは見た事が無かった。尤も彼の話自体は最終的には何とも言い難い方向に落ちてしまった訳ではあるが。

(恋……)

目を伏せるナマエにとってそれは複雑な想い出だった。届かなくて、見てもらえなくて、それなのに酷く近くて、苦しいような、あたたかな気持ち。いつの間にかその想いはもっと別の尊い感情に昇華されてしまったのだと思っていた。

それが少しだけ、再燃したような気持ちだった。

この気持ちが届かない事はナマエも分かっていた。「彼」はナマエの想いなんて知りもしなかっただろうし、そもそもそのきっかけとなった出来事を覚えてもいないだろう。それでもナマエは「あの日」確かに、兄と親友以外の他人に心を開いても許されるような気がしたのだ。

「……眠れないのかね?」

「……え?あ、い、いいえ!ちょっと考え事、してただけで」

不意に声をかけられてそちらを見れば、土方がナマエと同じようにぼんやりと焚き火を見つめていた。揺らめく炎が土方の鋭い瞳に不可思議な影を付ける。静かな周囲に焚き火の爆ぜる音と風が木の葉を揺らす音だけが響く。

「考え事?差し支えなければ聞かせてくれんかね」

歴戦の戦士の色を隠した土方は一瞬ただの好々爺に見えてナマエは薄く微笑む。それから目を伏せた。話したくない、というよりも話しても良いのか分からなかったからだ。この旅には何一つ関係の無い、彼らと出会う前の自分の話など。

「……あんまり、面白くないし、何の役にも立たないですけど」

「自分を卑下する必要はない。それに可愛らしいお嬢さんの事ならどんな事でも知りたいと思うのは男の性だ」

可愛らしいという言葉に僅かに頬を染めて俯いたナマエはそっと、焚き火に手を翳して目を閉じた。目蓋の裏に映るのは、大きな背中とあたたかな温もり、言葉。家族の愛を追い求めていたナマエに、人の愛を見せてくれた人。

「……白石の、恋の話を聞いて少し思い出しちゃって」

「思い出す?」

「……私の、初恋の事」

揺らめく炎が強風にあおられて小さくなる。ナマエは無造作に腰の籠からシタッを取り出すと炎に投げ入れた。焚き火がめらりと揺れて大きくなって、ナマエの琥珀色の瞳がゆらゆらと影を見せる。恥じ入るように頑なに視線を炎から外さないナマエの心を解すかのように、土方はナマエに微笑みかけた。

「聞いても構わないかな?」

「……ええ。あの、私の両親の話からになってしまいますけど」

少しだけ言い淀むように唇を舐めたナマエは、思い出すように顔を顰めた。己の生い立ちを話すのは初めてだったため、上手く話すには良く、考えなければならなかった。

「……私は、生まれる前の『とある事件』のせいで、両親の手を離れた『コタンの子』になりました」

努めて淡々と、何も感じていないような口調を保つナマエに土方は敢えて、相槌さえも打とうとはしなかった。ナマエもその方が話しやすかった。

「生まれ方のせいなのか、私の事を良く思わない人もいて、嫌われたくないから幼い頃はずっと、人の顔色を窺って過ごしていた気がします。でも、キロランケニパが、そんな事しなくて良いって言ってくれた」

思いがけない名前に意外そうな顔をする土方を上目に見つめてナマエは恥ずかしそうに「内緒ですよ。絶対に秘密ですからね」と言って笑った。

「では君の初恋というのは。しかし彼の昼の口振りではまるで知らないような、」

「……キロランケニパは本当に知らない事だから。初めて会った時にはもうお嫁さんもいたし、全然、そんなんじゃ、なくて」

慌てたように顔の前で手を振るナマエは、ゆっくりと土方の顔を見た。炎の影は、ナマエの幼さを打ち消して危うい色香を醸し出す。

「でも、初めて私の事情を知った上で、優しくしてくれた大人だから」

「ではまだ彼の事を?」

「あ、それは……違う、と思います。大切な想いだったけど、今はもっと違う感情に変化したんだと思ってます。今日思い出しちゃったのはお昼の事と白石の話があったからですし」

困ったように微笑んだナマエは目を細めて揺れる炎を見つめた。揺れる炎光は少しずつ小さくなっていてそれが消える事を恐れたナマエは再びシタッを取り出して炎に投げ入れる。炎がゆら、と揺らめいて焔舌を大きくした。

「土方ニパも、好きな女の人がいましたか?」

静かな声に土方も遠くを想う。特定の誰かを思い出したような気もするし、当たり障りのない共通項を思い出したような気もした。

「……さあ、どうだったかな。この年になってしまったら、もう忘れてしまったよ」

「ふふ、ずるい。私ばっかり話してる。でも、土方ニパが初恋っていう女の人は、きっと沢山いたんでしょうね」

「……ああ。それはもう掃いて捨てる程に」

「女泣かせですね」

くすくすと年相応の顔で笑うナマエは凪いだ瞳で土方を見つめる。その目は昼間の彼女の幼さを打ち消して成熟した女の表情を見え隠れさせる。少女と女の混じり合った危うさは男を惹き付けて余りある物があった。一瞬でも自身の男がざわついた事を取り繕うように土方は話題を変える。

「君はこの事は誰にも言っていないのかね?恋の相談を、友人にした事は?」

「……?さあ、誰にも言った事は無いです。アシパにも、兄にも」

照れたように眉を寄せるナマエの「兄」と言う言葉に土方はぴくりと身体を揺らす。江渡貝剥製所に残されたあの手甲を思い出した。しかしナマエは彼の強張りには気付かなかったようだった。少し楽しそうに表情を明るくさせる。

「兄が生きていたら、何て言うかな」

想像を巡らせ、密やかに笑うナマエの髪に焚き火から飛び上がった煤が落ちる。それに気付いた土方がゆっくりと手を伸ばせば、ナマエは琥珀色の瞳を丸くしてその手を受け入れる。

「焚き火の煤が付いてしまう。寒いのならば、これを。火からもう少し離れなさい」

ふわりとナマエの肩に土方の上衣がかけられる。ぱちり、と瞬きをした彼女は慌てて首を振った。

「さ、寒くないです!土方ニパこそ、寒くないですか!?」

「はは、年寄扱いするんじゃない。女子が身体を冷やすのは良くない。着ていなさい。そうでなくても、君はこの集団の中で一番無理をしている」

「無理、?私無理なんて、」

きょとんと大きな瞳を更に大きくするナマエの小さな頭を土方の武骨な手がゆっくりと撫でさする。まるで「父親」のようなそれにナマエの心臓は鷲掴まれたように痛んだ。

「大人と同じ物を求められて、それでも弱音すら吐かないそれを無理と言わず何を無理と言うのかね?君の恋の話は非常に興味深くまた微笑ましかったがどうやら長く話し過ぎたようだ。さあ、夜も遅い。明日も君には無理を強いることになる。寝なさい」

微笑んでナマエに毛布を渡す土方に彼女は素直に頷く。「おやすみなさい」という小さな澄んだ声に返事をしながら土方は僅かにナマエの「明日」が彼女にとって良き物であるよう柄にも無く祈ってしまった。

***

「アシパ」

夜、皆が寝静まってもアシパは寝付けず一度身体を起こした。それを見計らったように彼女の名を呼ぶ声が聞こえ、アシパがそちらを見ると尾形が気の無い表情でこちらを見ていた。

「尾形……。お前も眠れないのか?」

「……俺は繊細なんでね」

肩を竦める尾形をアシパは見つめる。未だにこの男の事が彼女には分かりかねていた。

「私に、何か用か?」

「お前、これに見覚えあるか」

仄暗い瞳が自身を見つめる圧迫にアシパは思わず尾形から視線を逸らす。しかし尾形の手にあるものを見て目を見開いた。それはあの手甲だった。

「なんで……、これ、どこで!」

「…………江渡貝剥製所で見つけた。やはり、『そう』なんだな?」

「どういうことだ!ナマエの兄さんは……エコリアチは、!」

「……やはり、あいつはナマエの兄貴だったという訳か」

低く零された尾形の声にアシパは彼に詰め寄る。脳裏を過ぎるのはインカマッの声だった。

(馬に乗るのがとてもお上手で、ナマエちゃんとはあまり似ていない)

(あら、和人の言葉にあるではありませんか。『便りが無いのは元気な証拠』、と)

「エコリアチは……、まだ、生きているのか?」

「少なくとも、江渡貝剥製所にはいたんだろうぜ。厄介な野郎だ、『目的がある』と言ってたが、まさかナマエの事か」

「っどうして尾形が『エコリアチの事を知っている』!?」

まるで旧知の間柄のようにエコリアチの事を語る尾形にアシパは驚愕に顔を強張らせる。それは彼女にとって最も考えたくない可能性だった。

「……簡単な事だろ?エコリアチは、鶴見中尉に付き従ってるって事だ。それ以外、奴と俺が知り合う方法なんか無い」

「ナマエは……、この事を知っているのか?」

「……さあな。『親友』のお前が勘付いていて言わない、そして元第七師団の俺が知っていて言わない。そんな大事な事を他の誰かが言うのかい?」

皮肉気に口端を持ち上げてアシパを見る尾形に、アシパは項垂れる。全ては可能性でしかなかったから、アシパは僅かな可能性でナマエの心を惑わせたくはなかったのに、その可能性は今、限りなく真実のものとなってアシパの目の前に横たわっていた。アシパはただ、今は遠くにいる親友を想うより他に無く、そして記憶の中にいる、エコリアチの快活な黒灰色の瞳がふと思い出されてそれが無性に恐ろしかった。

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