ナマエを確保したという一報を聞いて、予定を踏み倒して無理矢理に旭川を訪れた鶴見であったがそれはある男を待っているためでもあった。男は忘れ物を回収するために夕張の江渡貝剥製所に行っていたのだ。尤もその忘れ物を回収する前に江渡貝剥製所は襲撃され、全焼してしまっていた訳であるが。男が全焼した江渡貝剥製所を目の前にして膝から崩れ落ちたのは言うまでもない。
「鶴見中尉!!」
蹴り開けられた扉の蝶番が大きく軋む。居室にいた鶴見はその闖入者のあまりの剣幕に肩を竦めて立ち上がった。
「エコリアチ……扉は静かに開けなさい」
「そんな事はどうでも良いんです!ナマエが来てるって本当ですか!?」
「エコリアチ!弁えろ!!」
鶴見の胸倉を鷲掴む勢いで詰め寄るエコリアチと鶴見の間に月島が割って入る。鋭い黒灰色の瞳が僅かに揺らいで、それからエコリアチは肩を落として鶴見から離れた。
「……すみません、取り乱しました。それで、ナマエはどこです。早く迎えに行かせてください!」
「エコリアチ!!」
何の反省もしていないように思えるが一先ずはと鶴見はエコリアチを先導してナマエが拘束された部屋に向けて歩を進めた。
***
拘束を外されてナマエは内心疑問に思っていた。捕らえられたからには何らかの意図があるはずで、その意図を達成するためには対象に逃走されるのは避けたいはずだろう。鶴見は「ナマエの事が忘れられなかった」などと嘯いたが、そんな冗談到底信じる気にはならない。ともかく何か目的があるのならば己の拘束など外すべきではない。なのに、なぜ?
もうすっかり跡の消えてしまった手首を見つめながらナマエは立ち竦んでいた。鶴見の言い付けなのか、彼女の待遇は日を追うごとに良くなっていて最早彼女は第七師団の客人と言っても遜色ない程の待遇を受けていた。
(……っ!)
それでも未だ慣れる事は無い。扉の向こうから聞こえる足音には。こちらを害する意図が無かろうとやはり怖いものは怖いのだ。特にこんな風に足音も荒く一直線にこの部屋を目指してくるような足音は。
(あ、あれ……、?)
ふと、ナマエの耳は奇妙な音を拾った。それは拾う事など、絶対にありえないと思っていた音だった。それはとても良く似ていた。戦争に行って帰って来なかった兄が身に着けていた耳飾りが揺れる音と。聞けば聞く程に。
足音はナマエの部屋の前で止まる。なぜか心臓が痛いくらいに拍動して、ナマエはまた、ノックに返事をする事出来なかった。がちゃがちゃと耳障りな音がして錠が開けられる。扉の向こう側の気配は三人分だった。もう覚えてしまった鶴見の物、それから鶴見とよく一緒にいる月島の物、そして。
(うそ……だ、だって、「あの人」は……)
恐ろしいのに扉から目を離す事が出来ず、ナマエは背中に冷たいものが流れるのを感じる。震える手をぎゅう、と握り締めた。扉が向こうから開かれる。そこにいたのは。
「……ナマエ、」
「に、いさん……?」
もう二度と会う事の叶わないと思っていたナマエの兄、エコリアチだったのだから。
「ナマエ!ああ、ナマエだ!ここまでよく来たね!大変だったろう!」
まるで彼女がここにいる事を最初から知っていたかのように早足でナマエに近付いてその身体を強く抱くエコリアチにナマエは目を見開くしか出来ない。
「なんで……、ど、どうして?だって、兄さんは……!」
「戦争で死んだと思っていたんだろう?ごめんな。訳有りだったんだ。でももう大丈夫だ、こうして再会できたんだから。お前はもう何も心配しなくて良いんだ」
優しくナマエの頭を撫でるエコリアチだったが、小さな衝撃に驚いた顔をする。ナマエがエコリアチの手を払ったのだ。驚きに緩んだエコリアチの抱擁から無理矢理に逃れたナマエは彼と距離を取る。
「なんで!なんでっ、『ここに兄さんがいるの』!?」
愕然とした表情で叫ぶナマエの問いに、ぼんやりと己の手を眺めていたエコリアチは綺麗に笑った。それはナマエがかつて孤独襲われて泣いていた時に彼女を救ってくれたエコリアチが見せた笑みと同じだった。「もう大丈夫」と微笑む彼の顔と。
「お前を迎えに行くために、決まってるじゃないか」
「迎えにって……」
「ナマエ、約束しただろう。あんなコタンは捨ててしまおうって。この仕事が終われば、纏まった金が手に入るんだ。それを元手にどこか誰も知らない所で、俺たち二人で暮らそう」
美しく微笑むエコリアチにナマエは後退る。エコリアチが生きていた事は彼女を混乱させ、そして彼が何処に身を寄せているのかを考える事は更に彼女を混乱させた。
「それって、ここにいろって事だよね……?第七師団に?あ、そ、そっか!兄さんは、知らないんだよね……!今、私、アイヌの金塊の事でアシリパたちの旅について行ってて……」
「ああ。全て知っているよ。全く……、お前は昔っから無茶ばかりして」
仕方なさそうに微笑むエコリアチにナマエの顔は色を失う。信じられないものを見るような彼女の顔にエコリアチはナマエを安心させるように微笑んだ。
「危険な事にお前を関わらせる訳にはいかないよ。ここにいれば安全だろう?あんな危ない物なんて放っておいてお前は俺の仕事が終わるまでここでゆっくりしていればいいさ。何、すぐに終わるよ。師団の手に掛かれば皆殺しさ」
美しく微笑むエコリアチの瞳を見て、ナマエは服の中に氷でも入れられたように震えた。その瞳は彼の言葉とは裏腹に酷く純粋に煌めいていたのだから。
「な、何を言っているの?あの人たちは私の大切な仲間で親友で、今兄さんが身を寄せているのは、アシリパの敵なんだよ!?」
「だからなんだ?アシリパのためなら、アイヌのためならお前は犠牲になれるのか?忘れたのか?コタンの大人たちがお前に何をしたのか!」
「違うよ!確かにコタンには私を良く思わない人たちはいた!でも、アシリパは違ったでしょう!?確かに兄さんは家族だよ。でも、人を殺してまで幸せになるのは間違ってる!」
「…………っ」
吐き出された言葉に勢い余って肩を上下させるナマエは、はっ、と目を見開いた。エコリアチの大きく見開かれた黒灰色の瞳が愕然として見開かれていた。
「約束、したじゃないか。俺たちは、家族だろう……?ナマエは俺を拒絶するのか?」
「っ……、なんて言われようと、私は絶対に今の兄さんにはついて行かない!」
「…………!」
尚も頑なにエコリアチを見つめるナマエに一瞬狼狽えるように視線を右往左往させてから、無言の内に彼は踵を返し足早に部屋を出て行った。一瞬見えたその顔は見た事の無い苦悩が刻まれていて、ナマエの心臓を磨り潰されるような痛みが襲う。そしてエコリアチの背は見えなくなった。呆気に取られる月島と肩を竦める鶴見を置いて。
「月島軍曹、エコリアチを何とかするように」
「……は!?何とかすると言われましても、」
「あの様子では自害しかねない。……ナマエ嬢に拒絶される事が彼にとって『何を意味するのか』、知らないとは言わせんぞ」
「早く行け」とばかりに緩く手を振って月島を追い立てる鶴見に月島は仕方なくその場を離れる。後に残されたのは鶴見と俯くナマエだけ。鶴見は部屋の扉を閉めると、中央で立ち尽くしているナマエに近付く。
「……出て行ってください」
「幾らナマエ嬢の願いでもそれは聞きかねる」
「出て行って!」
声を荒らげるナマエの腕を掴んで鶴見が軽く引けば、ナマエは簡単に身体の均衡を失って鶴見の方へ倒れ込む。そのまま鶴見がソファに座ってしまったため、ナマエは必然的に彼の膝の上で彼の顔を呆然と見ていた。
「なんで、兄さんが……。あなたのせいですか……!?」
「彼がここに残ったのは彼の意思だ」
顔を歪めるナマエの顔の輪郭を擽るようになぞる鶴見にナマエは動きを止める。
「兄さんの、意思……?」
「いかにも。兄妹と雖も知らぬ事もある。君が自分を責める必要はない」
「っ、でもっ」
「少なくともエコリアチは君の事を考えてここに残るという決断をしたのだ。……その事に少しは報いてやりたまえ」
「ほら、泣くんじゃない」と繊細な指に頬を拭われて初めてナマエは己が泣いている事を知った。指摘されたからか涙は止まる事を知らず、後から後から零れて鶴見の軍服を濡らしていく。
優しく背中を撫でられてナマエは敵陣中で自身とその仲間と敵対している男の腕の中ただひたすらに声を上げて泣いた。何が正解で何が不正解なのかもう、分からなかった。
***
兵舎から少し離れた大きな木の陰で、ぼんやりと佇んでいるエコリアチを月島が見つけたのは偶然であった。鶴見から彼を探せと言われた月島であったが、傷心のエコリアチが行く場所など月島は勿論知らない。仕方なくそれらしいところを手当たり次第に探して漸く、月島はエコリアチの背中を見付けたのだ。
「……エコリアチ、」
窺うようにエコリアチに声をかける月島だったが、エコリアチは返事をしない。まさか、と最悪の可能性に行き着いた月島が慌てて彼の肩に手をかけて乱暴に顔をこちらに向かせるとエコリアチは力無く月島の方を向いた。
彼はまだ生きていた。だが、その目は死んでいた。
「俺、」
ぼそりと呟かれたエコリアチの言葉に月島は取り急ぎほっとして彼を座らせ、その隣に腰を下ろす。エコリアチは崩された体勢を元に戻して、酷く不思議そうに呟いた。
「俺はナマエの兄貴なんです。兄貴は、妹を導いてやらなくちゃいけない。俺だけがナマエの家族なんだから」
「エコリアチ……」
「何がいけなかったんだろう。全てナマエのためだと思っていたのに。ナマエのためなら、何もかも、捨てられたのに」
呆然とした様子で呟くエコリアチに月島は眉を寄せる。「家族」のあれこれについて彼は全くの門外漢だったからだ。なけなしの知識と常識を総動員する。ふと、幼馴染のことを思い出した。
「……今は、分かり合うのは無理かもしれない」
「……え?」
月島の言葉に顔を強張らせるエコリアチの顔を月島は見る。幼さの残る顔に色濃く乗せられる悲しみの感情は、そのまま彼のナマエへの愛情の深さにも見えた。
「だが、分かり合うために話し合えば良い。お前たちは兄妹だろう。そしてお前はあの子を愛している。あの子もきっと同じだ。なら、分かり合えないはずが無い」
そうだろう、と問いかける月島の言葉への返答はただ、「そうだと、良いんですけどねえ」という青年の呆然とした声だけだった。
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